2017-06-01

【メモ】草と木の間に(龍井茶)

【メモ】草と木の間に(龍井茶)  

【お話し】草と木の間に(1)林和靖の系譜(龍井茶)
【お話し】草と木の間に(2)帰隠橋(龍井茶)

天竺三寺─杭州の天竺寺は、上天竺寺と中天竺寺と下天竺寺の3寺が有ります。

下天竺寺と霊隠寺の香林茶と、上天竺寺の白雲茶は、既に貢茶でした。




1079年(北宋)、辯才法師は上天竺寺の住持を降りて引退し、龍井寺に移り住みました。

辯才法師は、訪れる人のために、道路を整備して竹林を植え、お茶を栽培します。

そして龍井寺に来る人には、必ず、自らお茶を淹れてもてなした。


ところが龍井寺を訪れる人が多いものだから、お茶が足りなくなってしまいます。

辯才法師はお茶の樹をどんどん増やして、寺の外でまで栽培を始めました。

これが、現在の龍井茶となった。


ここまでが、西湖龍井の縁起です。


遅れて10年後の1089年、蘇軾が杭州の太守となり、西湖の整備をして蘇公堤を築堤した。

そして、蘇軾と辯才法師には親交が有った。


ここまでが、史実です。


蘇東坡はこの後、他の湖でも2本ばかり同じ手口で堤を造っていますから、築堤が趣味になったようです。

後に龍井寺は移転しましたが、実は辯才法師の龍井寺が何処だったかよく分かっていません。

おそらくは、龍井泉の傍であったろうと考えられています。

蘇東坡は、辯才法師とともに、今でも龍井三賢に数えられています。


辯才法師

烏台(御史台):

行政の監察機関で、漢代の頃の御史台にはカラスが寄り集まった事から“烏台”と呼び習わされた。


龍井泉の龍の髭:

現代も龍井泉にはこの現象が見られる。

その物理的原因は不明とされていて、専ら粘度や比重が違う事によるシュリーレン現象とされている。

しかし、それは考え難いので、ここでは水温の違いによる現象としておいた。


山を降りられる茶:

陸羽が龍蓋寺(現在の西塔寺)で智積禅師の泡茶のテストに合格し山を降りる許可を得た故事。

陸羽は西湖畔に棄てられた孤児であったが、大鳥の翼に護られて凍死を免れ、後に孤児は陸羽と名乗った。

発見した智積禅師は寺に連れ帰り、坊主にしようとしたが、陸羽は「子孫を残せねば孝に反する」と屁理屈を述べて拒んだ。

山を降りる許可を得た陸羽は、諸国を行脚して茶経を著した。


烏台詩案:

1079年、蘇軾は恒例行事で奏上した詩が朝廷を批判したと捉えられ獄門首になりかけた。

当時、新法派の王安石の派閥と守旧派の欧陽修・梅尭臣・蘇軾の派閥の間に対立が有った。

首を斬られかけた蘇軾だったが、王安石を始めとする大勢の助命嘆願により、九死に一生を得た。


龍図閣学士:

宋真宗が設立した図書館の司書の職名だが、この頃は栄誉職的な役職名に冠する只の修飾詞で実務は無い。


知杭州(知県):

杭州の長(県の長)だが、中央集権を意図して“臨時雇い”の意味合いもある。


大隠隠于市(ターインインウーシー)

心を山野にも天涯にも自由に飛ばせるなら、敢えて深山渓谷に住む必要は無い。

本物の隠士はむしろ生活利便な市中に潜んでいるはずだ、という考え。


書辯才白雲堂壁:

この故事で蘇東坡が立っていた場所に雪坡亭が設置されたと伝えられるが、現在は無い模様。


人言山佳水亦佳,下有万苦蛟龍潭:

この句は龍井泉の宣伝文句によく出るが、径山寺での作という話も有る。

この句を根拠に、龍井泉は東海に通じていて龍が棲んでいる事になっている。


林和靖(りんなせい)

杭州西湖の孤山に住んだ隠逸詩人。

自身は一切の仕事をせず妻帯もせず世俗から離れて生涯を送った隠士だが、同世代や後世の多くの者に影響を与えた。

饅頭の話しで、再度登場する予定。


魯班(ろはん)

公輸班の方が、日本では通りが好いかもしれない。

周代の石工や木工の神様的存在で、中国人ならまず誰でも知る、墨家とも関わりのある建築や土木工事の技術者の始祖。

工事の技術者に魯班の流れを汲む職能集団が関わったと妄想してみた。

「この石橋は魯班が造った」、「この廟は通りかかった魯班が手助けしてくれて出来た」、そういった形で中国各地に魯班伝承が残っている。

杭州西湖の三潭印月にも「魯班軍団が妖物から杭州西湖を護り、魯班の手により三潭印月で妖物が鎮められた」とする杭州の伝説が有る。



蘇軾略歴:

1071-1074年杭州通判(副知事)、密州、知州、徐州、湖州、1079年逮捕、-1084年黄州(湖北)、常州、登州(山東)を転任、

1085年回朝、1089年-龍図閣学士知杭州、1091年回朝


辯才法師(1011-1091)略歴:

俗名は徐無象、法名は元浄

出生時に袈裟状の肉瘤があり81日後に消えた事から沙門の宿世、寿命81歳と判断され、10歳で西菩山明智寺で出家。

16歳で落髪足戒、18歳で上天竺寺に移籍し茲雲法師に師事。

天台教義と摩訶止観を修め大悟を得、以来、凡そ遇う人全てを圓融無碍とする。

名が呉越一帯に知られ、宋神宗は紫衣の袈裟と“辯才”の法号を賜号。

中書舎人の曽公亮に験を顕し曽公亮は宰相となる。以来、求学僧が増え上天竺寺は杭州の大叢林となる。

第三代祖師として17年住持法席を勤め、1079年引退し山を降り龍井寺で茶の栽培を始める。

来る者を拒まず、法師自ら茶を点てたため茶が足りなくなり寺の外にまで茶樹の栽培を始める。

これが後に龍井茶の興りとなった。

1091年、81歳(数え年)で圓寂。




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