2017-06-26

饅頭山攻防戦(饅頭@杭州)

 敵に饅頭を送る、饅頭2万個で杭州城無血開城 

 饅頭山攻防戦 

 (饅頭@杭州) 


太平天国の乱

太平天国の乱、という騒乱が清朝末期にありました。

たしかアヘン戦争のあとですが、有体にいって、清朝が増税を繰り返して起きた大規模な農民一揆です。


洪秀全さん

首謀者は洪秀全という神がかりの教祖さまで、「天王」と称しました。

きっと、日本の「天皇」をまねしたんでしょう。

“天皇”は、「皇帝よりもさらに上の、天の皇(すめらぎ)」という意味です。


欧米列強から見れば、やはり内乱の一種でしかなかったでしょう。

しかし、その清朝を狙う諸国の思惑もありました。

太平天国軍は規律をよく守り、清朝軍よりも品が良くて、しかも強かった。

民衆の支持を受け、南京を首府としてそれでも一時的とはいえ国の体を為しました。


太平天国軍

中華では、庶民にしてみれば三国志の時代から変わりなく、


「官とは民衆の生活とは関係なく、交替していくもの」

「交替するたびに騒動を起す、困ったちゃん」


そのような認識があります。

だから判官贔屓というべきか、その裏返しというべきか、

伝説の世界では、太平天国には同情的なある種の親しみが散見されます。



太平天国の忠王、李秀成の軍が杭州の城市を取り囲んでから約2ヶ月。


城市(チャンシー)は、宮城と城下町をセットにした“都市”を意味します。

城市の外側は城下町ごとぐるっと壁で囲われている。

壁にはあちこちに門があって、そこから城外との行き来をする。


日本人にはピンときませんが、中華人にすれば逆に、日本の城下町が壁で囲われてないことを奇異に感じます。

通常は宮城を中心に、若しくは北側に配置して城下町が広がるのですが、杭州城市はこの点特殊。

地形の故か、宮城が最南端で、概ね北方に城下町が広がっていました。


太平天国はその杭州城を取り囲んで、清朝軍を兵糧攻めにしたのです。

宮城には兵糧戦に備えた畑もありますが、2ヶ月は保ちません。

城内で兵糧が尽きた清朝軍の兵たちは、ネズミの穴まで掘り返して食糧を探します。

一方、太平天国軍には近在の百姓たちが米や野菜やブタや羊をどんどん運んできました。



お昼時。

杭州城の鳳山門(たぶん最南端の門)に配備された1万人の連隊(大袈裟だろ)は、小山の上で饅頭(マントウ)を蒸していました。

お腹いっぱい食べたら、午後は城内に突撃の予定です。

そこへやって来た王爺が声をかけました。

(王爺:ワンイエ、王族の意だがここでは指揮官)


「これはまた、いい香りですね

 お昼ご飯は、何ですか?」


「饅頭ですよ、葱肉花饅頭」、と太平軍の兵士たち。


「それは、おいしそうですね

 ひとり頭、何個食べるんですか?」


「何個だなんて、腹いっぱい食べますとも」


王爺は笑いながら、


「食べる物が有る、そんな時にこそですね

 飢えた時のことを、忘れないでください」


兵士たちは声をそろえて、


「わかりました、ご安心ください王爺

 我々が天王さまの教えを忘れることはありません」


王爺は笑みを浮かべて頷きながら、営内に向かいます。

営内では、将爺(コマンダーかな?)からの報告を受けました。


「昼食には肉饅頭を蒸しました

 子弟たちには、腹いっぱい食べて貰っています

 午後からは、城攻めにかかります

 今日こそは鳳山門を突破しましょう」


王爺は頷きながら、


「或いは、午後の戦闘は不要かもしれません

 全員に通達してください

 各人2個づつ、饅頭を携帯するように

 食べずに取っておくのです

 食事が終ったら、前線に集合

 それから作戦を伝えます」


一方、杭州城の城内の清兵たちは、

もう城下にある腹に入るものは食べ尽くし、醤油も味醂もお酢までも飲んでしまいました。

お薬屋さんで見つけた、甘草や肉桂なんかも齧っていましたが、これも尽きました。


城外では太平天国軍が、盛んに気勢を上げている。

漂ってくる、肉饅頭のいい匂い。

青息吐息で空を見上げて、溜息をつくばかりです。

もうこのまま、援軍が来るまで保ちそうにはありません。


杭州城鳳山門の最前線に集結した、太平天国軍の1万人の連隊。

弓を引き絞ってみたり、剣を抜いて振り回してみたり、太極拳の架式(型)を始めたりと、いきり立っています。


王爺が指揮台のうえに登場して講話をはじめました。


「子弟の皆さん、杭州城を占拠しているあの者達

 それは飢えてしまった、ヤクザな虱なのです

 我々はどうして、虱なんかと戦っているのでしょうか?」


兵士たちから漏れ出る笑い声、だが、王爺は続けた。


「今日(こんにち)、杭州城にある清朝の敵兵たち

 彼らは、朝廷によって逼迫し、敵兵となりました

 本来は、我々と同じ窮した百姓(パイシン:庶民)なのです

 投降してくれば、明日にも同胞となる者達

 子弟たちよ、この戦闘は元来無用でしょう」


静まりかえる最前線。

そして、議論が湧き起こった。


「理はある。無用な戦いだ」

「なら、どうやって杭州城を奪回するのだ?」

「清朝の妖物どもはどうするのだ?」

「論外だ、やつらは仲間には成り得ない」

「やはり、この機に一気にやってしまわねばならぬ」


却って、しだいに激昂してくる太平天国軍の兵士たち。

よろしい、弓を執れ、矢をつがえよ、王爺の号令。

1万人の兵が一斉に弓を引き絞り、矢を射ち放った。


急に静まり返った城外に、不安が増す清兵たち。

その目に飛び込んできた、矢ぶすま。


 とうとう来た!


空が暗くなるほどに密集した矢が、クラスター爆弾のように広がり、

容赦なく、逃げ惑う清兵たちに襲い掛かかった。

阿鼻叫喚と化す杭州城内、清兵たちの怒号と悲鳴。


 痛てっ 


 いててて 


 あいたたた 


 ──> ぶすっ ──> ω


お尻に矢が刺さりました。

もう、もの凄く痛い。

痛むお尻を見てみると、でも、矢なんて刺さってません。

一瞬、お腹が空いたのを忘れてしまいました。


ふと気付くと、飛んできた矢には矢尻がついていません。

矢尻のかわりに、なんと肉饅頭が括り付けられている。

しかも、2個づつ。


城外から、太平天国軍が呼び掛けてきました。


「おーい、食べたら早く出て来いよおー」

「呑百姓どうしでやり合って、どーするよー」

「いつまでも清朝のバカに付き合ってんじゃねー」

「早く終らせて、肉饅頭を腹いっぱい食べようよー」


思わず目を見合わせ、歓声を上げ始める清兵たち。

自分たちだって、闘いたくなんかないのです。

清波門や候潮門からも、歓声が轟いてきました。


清兵たちは、たちまち城外に雪崩れ出てしまい、


太平天国軍、突入。


清朝の妖物さんは、あっというまに吊るされてしまいました。


杭州城、2万個の饅頭で無血開城。


太平天国は杭州城を占拠して、

以来、鳳凰山の麓にある小山は“饅頭山”と呼び習わされています。




 【メモ】饅頭山攻防戦(饅頭@杭州) 


饅頭山はホントに有りますが、でもまさか史実では無いでしょうが。

誰がこんなくだらない話し考えついたんだか。


上海生粋の点心、小龍包は、この太平天国軍の杭州城占拠をキッカケとして生まれました。



“饅頭”の発音は、普通話(公用語)では「マントウ:mantou」ですが、

杭州の方言では、「マンデュウ:mandiu」です。


あ、いえ、きっちりした確認は取ってませんが、でも、杭州のブログサイトで{mandiu[検索]}したら饅頭の記事がヒットします。

店長曰く、上海にも「古い上海語」というものが有って、それが杭州や蘇州へ行くと少しづつ変化するのだそうです。

それはおそらく、呉の国の言語だと思うのですが。


そして杭州からこれが渡来して、日本のお饅頭(まんじゅう)になった。

相当に知れ渡ったお話しですが、今ひとつ、未だ補完すべき点があるように思います。

そのお話しは、次の正月ぐらいの予定です。


包子(パオツ)は北宋から南宋の時代にかけて、杭州で発達しました。

南宋の時代は、日本との交易が盛んな時期でした。

そして、南宋の時代は杭州が(臨時の)首府でした。


「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭、西湖を恥ず」

「梅白し昨日ふや鶴を盗れし」

「象潟や雨に西施がねぶの花」

杭州は、松尾芭蕉の時代から憧れの土地でした。

日本の昭和初期といえば上海が魔都であった頃ですが、日本の文人達は憧れをもってこぞって杭州に入りたがります。

芥川龍之介も谷崎潤一郎も、近くは司馬遼太郎も、みな杭州を訪れました。


青木正児(まさる)の「江南春」なんて貧乏旅行エッセイが流行する。

女学校の修学旅行に杭州旅行が流行る。

査証(ビザ)なんて要らない、刑事事件さえ起こさなければパスポート無しでもなんとかなった。

そんな時代がありました。


杭州は、日本にとって存外と身近な、

中華のなかでも特別な、何か母方の郷里のような不思議な郷愁が感じられます。




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