2017-06-01

草と木の間に(1)林和靖の系譜(龍井茶)

 龍井茶の開祖・辯才法師と西湖を再生した蘇東坡 

 草と木の間に(1)林和靖の系譜 

 ─龍井茶秘話─ 

【次のお話し】草と木の間に(2)帰隠橋(龍井茶)

蘇公堤

北宋年間(1089年)


初夏の竹林を歩いていった。

山間の小道を抜けたところに龍井寺は有った。

当時ここは、寿聖院という荒れ果てた庵だったはずだ。


寺の泉で水を汲んだ。

長杓を突っ込むと水面に龍の髭のような線が浮かび、漂いながら消えていった。

陰陽が交合する一種の龍脈、法師が此処を選んだ理由はこれか。

この泉には2種類の地下水が湧いていて、温度差が有るのだろう。


「邪魔するよ」、小坊主さんに一声かけて勝手に庫裏に入り込み、湯を沸かして茶を淹れた。

好い水だ。

最近出回り始めた景徳鎮の茶器。

茶壷(チャーフー)から漂い始めた西湖郷の新緑の香りが懐かしい。

上天竺寺ではいつも法師がお茶を振舞ってくれた。

あの頃は行き詰る度に霊隠寺から山を登り、上天竺寺の辯才法師を訪ねたものだ。


10年前といえば、自分は烏台(御史台)に逮捕されて斬首されかけた年だ。

王安石を筆頭とする急進派の連中をおちょくったら、獄門首になりかけた。

それを救ってくれたのは、結局、対立していたはずの王安石だった。

なぜ王安石が自分を救ってくれたのか、今も分からない。


その同じ10年前、辯才法師が引退して山を降りると表明した。

すると引退後の居所を巡って、多くの者が名乗りを上げた。

皆、自分の近くに住んで頂こうとしたからだ。


だが法師が終の棲家に選んだのは、この獅峰山の山すその荒れ果てた庵だった。

法師が此処に住まうようになってから、近在の有志が修建して今は龍井寺と呼び習わされている。


勝手に入り込んで勝手に茶を淹れ始める変なオヤジを、小坊主さんが不思議そうに見ていた。

小坊主さんに茶を振舞っていると、茶の香りに釣られて辯才法師が顔を出した。


何も言わずに、法師に茶杯を差し出した。

法師も何も言わず手に取り、香りを聞きながら一口で飲み干した。


「和尚さま、この方は?」


小坊主さんが法師に訊いた。


「この人が、蘇東坡(そとうば)だよ」


和尚さま、か。

この法師はとんでもない高僧だ。

なにしろ、辯才という法号は皇帝から賜号された。

その説法は、鬼神までもが聴きに来た。


かどうかは知らないが、この法師が夜講堂を建てて誰も居ない深夜に説法をしたのは事実だ。


曰く、


「人は幽鬼を恐れるが、幽鬼や鬼神には威も徳も無い

 幽鬼にしてもまた人が怖いから、昼間は聴きに来れまいさ

 或いは、夜なら、聴きに来ようという奴も居るかもしれぬ」


そんな事を言って、夜な夜な深夜に説法をした。

実は、その現場に立ち会った事がある。

誰も居ない暗闇に向けて、説法する法師。

鬼神が来るかもしれぬ、という事で誰も居はしない。

残念ながら、幽鬼も鬼神も来なかった。


「お前もこの程度には、茶が淹れられるようにならんとな

 茶を淹れるのもまた修行だ

 なにしろあの茶仙の陸羽は小さい頃から寺で・・・」


「はいはい、わかりましたよ

 わたくしは茶樹の手入れがありますので」


法師の説教を嫌って、小坊主さんが逃げ出した。

苦笑するしかない。

小坊主さんは、この後、茶樹の手入れをする事になる。

自分もこの法師には、さんざん茶を淹れさせられた。


これがこの法師の遣り口だ。

なんだかんだ言って、結局、他人にある種の修行を積ませる。

夜講堂で独り説法をした理由、それはおそらく、誰にも邪魔されないように修行を積んでいただけだ。

結果、上天竺寺の他の坊主どもも、早朝や昼間の修行を真面目に勤しむようになった。


茶仙陸羽の茶経を読ませてくれたのも、この法師だった。

茶経だなんて、あれはお経ではなく茶の学術書だ。


茶経によると、茶はもともと“荼毘に付す”の“(だ)”の字が当てられていた。

荼の意味は苦菜(にがな)だ。

それが“”になったのは、唐玄宗の書き間違え説と、陸羽の造字説とが有る。

陸羽は「草と木の間に人が有る」といって“”の字を使った。


「少しはましな茶を淹れるようになったの」


「あはは、私も山を降りられる程度のお茶になりましたか?」


「どうした、あれからもう16年か

 烏台詩案の件は聞いたが、よく生きてたもんだな」


「逮捕されて、もう死んだと思いましたがね

 なんとか、ギリギリセーフでした」


「また左遷を喰らったのか、蘇軾(そしょく)


「いえ、今回は自分で願い出ました

 龍図閣学士知杭州、だそうですよ」


「龍図閣学士か、今は只の肩書だな」


「はい、でもって“知”の字も付いてる

 つまりは臨時雇いの、只の杭州大守です」


「そうか、それは好かったな」


19年前(1071年)


王安石の不興を買い杭州に左遷された時は、もう行き詰っていた。

雪が降り頻る冬の最中、何となく山に登るとどんづまりに上天竺寺は有った。

そこで辯才法師(べんざいほうし)の噂を思い出した。

会ってみたかったのだが、生憎と法師は留守だった。


その噂とは、「辯才法師に会うとどんな問題も融解して問題では無くなってしまい、全てが丸く納まってしまう」というものだ。

だが、その高僧は他の寺に講演に出ていて遂に帰って来なかった。

本来なら、当時の自分がお会いできるようなお方ではない。

雪が降る中、傘もささずにただ待ち続けていた。


貧すりゃ鈍す、行き詰った時はこんなものだ。

腹立ち紛れに筆を執り、寺の壁に詩を大書きして帰った。


  書辯才白雲堂壁 


不辞清暁叩松扉,却値支公久不帰。

山鳥不鳴天欲雪,巻廉惟見白雲飛。


後日、辯才法師からお声がかかり、初めて法師に面会できた。

左遷を喰らって行き詰っていると告げると、この法師は言ったのだ。


「そうか、それは良かったな」

意味が分からなかった。

今は、分かる。

現にこうして、自ら願い出て自分は杭州に帰ってきた。

逮捕されて閑職に飛ばされても、逆に社内ニートを楽しんでいた。

自分はかつて杭州に左遷されてきて、良かったのだと思う。


辯才法師は10歳の時、西菩山明智寺で出家した。

その時、辯才法師が語ったのは、明智寺の縁起だった。


唐代の頃、道志和尚が諸国行脚の雲遊をしていると、一筋の白光が天を衝くのを見た。

白光は徐々にゆっくりと広がり、天に向かって湧き上がってくる。

何事かと道志和尚が見ていると、白光の中に蓮坐に乗った観音菩薩のお姿を観た。

観音菩薩が蓮坐を降りて、一歩こちらに踏み出した。

瞬間、道志和尚は突然に大悟した。


その後、道志和尚は托鉢で銀を集め、その地に明智寺を建立したというのだが。

辯才法師は訊ねた。


「道志和尚は本当に観音菩薩を見たのかな?」


「それは大悟なされたのですから、見たのでは」


「さて、ワシが大悟した時は、見なかったがな

 それは、ワシも仏門だから、観音さまや如来さまは身近にあるよ

 でもそんなのは、ちょっと真摯な施主さんだったら感得するさ」


「でも、道志和尚は悟りを得られたのですよね」


「うん、そうゆうこと」


この法師は何を言っているんだ。

だが、ふと気付いた。

左遷されて行き詰ったはずだったのに、気付くと、


自分が何に行き詰ったのか、分からなくなってしまった。

道志和尚が観音菩薩を観たのも、自分が何かに行き詰ったと思ったのも、まさか同じ事だというのか。

観音菩薩を観ようが観まいが、道志和尚が突然に大悟した事実だけが有る。



庫裏の連子窓から外を見ると、境内にはやたらと茶の樹が植えてあった。

小坊主さんが汗をかきながら草むしりをしている。


木々の間を通して山の向こうに、荒れ果てた西湖が見えた。

伝説の越国の美女、西施に因む名を与えられたかつては美しかった湖。

故に地元の者は湖水を主体にしては西子(シーツ)と呼び、山水を主体にしては西村(シーツン)と呼ぶ。


16年経つうちに土手は崩れて水が干上がり、郷民が畑を作ったり牛が放してあったりして、蟹と泥亀が這いまわっている。

もともとが、水害の多い土地柄だ。


「やっと西湖の修復が出来るか

 和靖先生も喜ぶだろうな

 今度は大守だろう蘇軾、お前やれ」


「はいはい、やりますよ

 和靖先生の話しは、欧陽修や梅尭臣からさんざん聞かされてます

 法師は和靖先生に会った事があるんですか?」


「あの人が西湖の孤山に棲みついたのは、ワシが子供の頃だ

 小坊主の頃にな、上人に連れられて行って会った事がある」


林和靖が死んだ時、あの人が飼っていた鶴が一声鳴いた。

ワシはそれを、聴いたよ。


「その鶴は林和靖の墓に、寄り添う様に死んでいたのですよね」

処士・林和靖先生、杭州西湖の孤山に棲んだ隠士。

自身は出仕もせず仕事もせず、ただ詩を詠んでいただけの変人。

だが代わりに弟子どもを進士に仕立てあげて出仕させ、多くの官僚文人墨客に影響を与え続けてきた。

確か、自分が進士になった頃に侍御史(監察官)を勤めていた林大年も林和靖の弟子だったはずだ。


欧陽修と梅尭臣も林和靖フリークだった。

今の自分が辯才法師を訪なうように、林和靖の許を訪れていたと聞いている。

梅尭臣(ばいぎょうしん)は、林和靖の詩詞の編纂をやった。

その梅尭臣が、よく言っていた。


「あの人こそ本物の隠士だった

 大隠隠于市というがな

 林逋(りんぽ)は孤山に20年も棲んでいてだ

 杭州城市には一歩も入った事が無かったんだぞ」


太公望は隠士と言ってもな、結局仕官したろう

釣り針のない仕掛けで、文王を釣ったんだ

仕官するための隠士は隠士じゃないんだよ

あの人は生涯に渡ってしなかった

仕官したら隠士じゃないと、知った上での確信犯


「その影響を受け過ぎちまったかな

 俺はすっかり出世できない男になってしまった」


梅尭臣が科挙に及第したのは50歳を越えてからだが、それは絶対に欧陽修の陰謀だ。

その後、あの二人はコンビを組んでそれは過激に政治改革を推し進めていった。

おかげでそんな二人に見出された自分もまた、左遷を喰らいまくる事になった。

(注:欧陽修と梅尭臣は蘇東坡が科挙を受験した時の試験官で、蘇東坡の才を見出した)


自分にしてみれば、これは欧陽修と梅尭臣の祟りで、引いては林和靖の呪いとでも言う他はない。

あの二人も亡い今、西湖の修繕もまた、どうやら自分の役回りになるらしい。


龍井泉

「ここのは、良い泉だろう」


「はい、虎跑(フーパオ)と、玉泉(ユィーチュアン)と、

 西湖郷じゃ、3本の指に入る泉じゃないですか」


「何か、詠んでみろ」


人言山佳水亦佳,下有万苦蛟龍潭。


「それ、お前、径山寺で詠んだやつだろ」


「あれ、知ってたんですか?」



次に訪れた時には、境内の茶の樹が増えていた。

空き場所が全て、小さな茶の苗木で埋め尽くされている。


「茶樹の世話も大変なのですがね

 それよりも和尚さまったら・・・」


法師は訪れる客には全て、手ずからお茶を淹れてもてなすのだと小坊主さんは言った。

しかも来客の数が半端ではないと言う。


それはそうか。

上天竺寺の頃から辯才法師を慕い訪れる地方官は多かった。

あの頃から辯才法師は、来客には自分で茶を淹れていた。

そのスタイルは今も変わっていないのか。


そんな高僧が山寺の和尚さんになった。

加えて、郷民も訪れるようになった。


「だからお布施も多いのですがね

 和尚様はそれを全て、茶の樹にしてしまいます

 林和靖先生の梅の樹じゃあるまいし」


小坊主さんのぼやきが止まらない。


「来客用の茶が足りないからだと仰るんですが

 いくらなんでも常軌を逸しています

 茶の樹が多すぎです」


「ふーん、じゃあ、お茶っ葉の以前に

 何かルールを設けなきゃ、法師様が保たないね」


「そうですよ、蘇東坡さまの方でも

 何か、手を打ってくださいまし」


「うーん、わかった」


こらこら、お前が知県さまに文句を言ってどうする、文句は観音さまにでも聞いて貰いなさい。

そんな益体も無い事を言いながら、辯才法師が出て来た。


「酷いですね、小坊主さんは法師の心配をしてるんですよ」


「茶の樹ならまだまだ増やすよ

 上天竺寺の頃から準備は済ましてあるの

 苗木を供給して貰えるように、話はついている

 上天竺寺と霊隠寺の両方、他の寺からもな」


まだ増やす?

以前からもう、手配済み?

もう、境内はいっぱいなのに。


「何、考えておられるんです?」


「考えてるよ、農民が耕作するのは食べるだけじゃないだろう

 食料と租税以外の収穫はどうするんだ、蘇軾(そしょく)


農耕作といっても、これは茶の話しで、茶というものは寺のものだ。

達磨大師の昔から、仏教と茶の関わりは深い。

炎帝神農が茶を医薬品として発見し、陸羽が全国版の便覧を作成して喫茶法を確立した。

茶は寺が栽培して、仏教の坊主や道教の道士が修行の合間に飲むものだろう。

霊隠寺と下天竺寺の香林茶、上天竺寺の白雲茶、陸羽の茶経にも掲載された貢茶(皇帝献上用)だ。


もう茶の樹でいっぱいになってしまった境内。

そこから、さらに茶の樹を増やす。

という事は、


「近頃の杭州の景気は、開封(当時の首都)とどう違う?」

何を言っているんだ。

まさか、杭州では近年急速に発展してきた貨幣による経済の流通の事を言っているのか。


「貨幣経済が・・・発達して来ました・・ね」

法師がにやりと笑った。

やはり、そうなのか。

これまでは寺のものであり続けた茶が、


茶樹が、今、寺から食み出そうとしている。

まさかこの法師は、茶を民間の産業にして換金作物にする気なのか。


「もしかしてそれで西湖の整備、なのですか?」


「うん、お前がやらんか、蘇軾」


この法師は風光明媚な西湖を取り戻せと言っているのではない。

水利まわりのインフラを整備しろと言っているのだ。

それを支えるための水源、杭州西湖の再生が必要だと言っている。

これは、少々本気で考えねばならない。


「あの白居易が白堤を整備して

 近年では、范仲淹が浚渫をして

 昔から多くの者が西湖を保守してきました

 それでも、このありさまです」


「じゃあ、そのどっちもやれよ」


簡単に言いやがるが、そういう事ではない。

西湖は杭州の水源としての、もともとは人造湖であったらしい。

これまでも、幾多の者がその整備を続けてきた。

だがもともと有るべき場所にある湖ではないから、自然災害で壊れてしまうのだ。


「ここらの山はそれほど深い訳でもありませんがね

 集水面積が大きく、山の湛水量(たんすいりょう)が多いんですよ

 もともと、水が多い土地なんです

 山向こうの村なんて溜池だらけですよ

 だから呉越戦争では騎馬が使えず、剣術が発達しました

 確率的にね

 ある一定以上の降水が有ったら、湖のキャパを越えて

 どうしても、堤防は決壊してしまう訳です」


「湖を、静的なものと捉えたらな」


「動的な湖って何ですか

 治水の神の大禹(だいう)みたいに、龍と戦ったり

 山神と相談して山をひょいと動かすんですか」


いや、静的ではない湖─アクティブな湖。

それは、水は流れるもの、システムの問題、考えるべきは湖の補強ではなく、


「つまり、流入側と排水側のバランスを考えろと」

これは、考えた以上の土木工事になる。

まさかこの法師は、そのために山を降りたのか。

そのために、来る人来る人全員拒まずに、手ずから茶を淹れて根回しをしているのか。

この法師は、本気だ。


「宋は金国に押され続けている

 いずれは遷都も視野にいれろよ、蘇軾

 大唐の西安、宋の開封、次は何処に遷都するんだ?

 杭州を整備して、国力を増強せねばなるまいよ」


この法師は、何処まで読んでいるのだ。

そんな発想が斜め上なのか、的を射ているのか、もう分からない。

だがしかし、杭州を整備して産業を興し国力を増強する。

それは確かに必要だ。


「茶を塩と、同じ位置まで引き上げる

 塩の産地は限られるが、茶は何処でも作れる」


茶の交易まで、視野に入っているというのか。

それは他所の地方の他人の家を訪れて、出て来るのは、水かせいぜい白湯(さゆ)だ。

しかし、近頃の杭州や蘇州では、庶民までが茶を飲むようになって来ている。


開封ではまだだが、いずれ開封でも普通に茶を飲むようになる気配は有る。

ならば、西安でも武漢でも天津でも、人々が皆、茶を飲むようになるのか。

まさか、世界中の人々が茶を飲むようになるとでもいうのか。


そうか─


その時、宋は、杭州は、世界中に向けて茶を供給するようになるのか。

茶は、重要な交易品目になるポテンシャルが有るのかもしれない。


龍井茶畑



【次のお話し】草と木の間に(2)帰隠橋(龍井茶)
【メモ】草と木の間に(龍井茶)

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