林和靖の子孫である証拠、人民政府はそれを認めない
梅と鶴の末裔(10)孤山への途
(饅頭@杭州)
林和靖について調査を開始した川島英子氏でしたが、しかし、日本国内に林和靖の資料など幾らもありはしない。
無いこともないでしょう、林和靖先生詩集は江戸時代には日本でも刊行されていたようです。
しかしそこには、梅尭臣の序文がある。
逆に、林和靖には子孫は無いとする資料にしかならない。
日本側の資料には、林浄因は林和靖の後裔であったと当然の如く記されている。
なのに林和靖は梅妻鶴子(メイチーフーツ)。
全ての林和靖に関する史料には、植梅養鶴をしながら孤山に住み20年間杭州城内にすら足を踏み入れなかった北宋の隠逸詩人で妻も子もない。
そう記されている。
林和靖に子孫はない、それが定説だったのでした。
困った川島英子氏は杭州市長に相談、杭州市長は杭州大学の教授に依頼。
そうして杭州大学の教授から示された資料は、
○ 『山家清供』林洪著
○ 『宗史 隠逸上林逋本伝』
ダメダメです。
杭州大学の教授さんも、よくもそんな資料を提示したものです。
林洪・可山は『山家清供』の記述で、あれほど罵倒され叩かれた家系を偽る瓜皮搭李皮の代表選手。
宗史は発行が林洪よりだいぶ後の時代ですが、歴史上何度も浮んだ「林和靖妻帯説」を真っ向から否定する梅妻鶴子の根拠。
そんな資料では、杭州市政府は林浄因碑建立の許可を出せるわけがありませんでした。
ところが、許可は下りた。
杭州大学の教授は相当に食い下がったことでしょう。
「林和靖に子孫は無いが、係累なら確かに有った
その子孫が日本で饅頭を作ったのは有り得ることである
林浄因とその子孫は、日本で多大な文化的貢献をしている」
杭州大学の教授はそのように主張して、杭州市政府を説得したということです。
場所はさすがに孤山というわけにはいかず孤山の対岸、清波門に程近い『柳浪聞鶯公園』となりました。
柳浪聞鶯 |
柳浪聞鶯公園は元々は南宋の頃に整備された聚景園という御苑だったものが元代に破壊され、清代になってから再び整備されました。
題字の『 柳浪聞鶯 』は、康熙皇帝直筆の御題によります。
この御苑は、『柳洲』とも称されました。
「西湖の基調は柳にある」─ 『江南春』(青木正兒)
枝垂れた柳の枝が風に揺れ動くさまを「柳浪」と呼ぶ。
黄鶯飛舞、競相啼鳴、故に『柳浪聞鶯(リュウランウェンイン)』。
ここには岐阜市と交換された「日中不再戦」の碑と日本の桜がある。
2012年の2月10日には、記念碑の前で岐阜市長、杭州市長と各界代表及び両国の少年少女が桜を植樹した。
岐阜公園の日中友好庭園には「中日両人民世世代代友好下去」の碑とミニ西湖が有る。
日本人が何かの碑を建てるならば、柳浪聞鶯は適当な場所であるのかもしれない。
(注:おいおい人民政府さん、守ってくれよ)
志賀直哉、島崎藤村、与謝野鉄幹,晶子夫妻らの古い文人達に愛された兵庫県の城崎(きのさき)温泉。
柳並木で有名だが、この柳ははるばると杭州西湖の柳が移植された。
城崎に7つある外湯のひとつの柳湯は、この柳の根元から湯が湧き出したことに因んで命名された。
両足院のお庭 |
京都、建仁寺の両足院。
塩瀬の墓前に手を合わせる、川島英子氏は語りかけました。
「私と一緒に、林浄因さんの許に参りましょう」
杭州西湖の湖畔、柳浪聞鶯の聚景園。
日本饅頭創始人鹽瀬始祖
林 浄 因 紀 念 碑
1986年、林浄因紀念碑の除幕式は盛大に執り行なわれた。
碑は穴があき凹凸が多く、それでいて角がない奇石だった。
没有太湖石也就没有園林
「太湖石無くば庭園に非ず」
蘇州の太湖(タイフー)付近でのみ採石されるこの奇石は太湖石と呼ばれ、中華の庭園には欠かせない。
林浄因紀念碑 |
ここに、林浄因と妻子の魂は邂逅し永遠に添うこととなった。
ようやく肩の荷がおりた、川島英子氏。
─ 日本人が西湖畔に無名の人物の紀念碑を建てた
─ その人物、林浄因は林和靖の後裔であると称していた
中国では相当広く報道されたようですが、日本で報道したのは朝日新聞くらいであったようです。
これでようやく終った、そう思った川島英子氏でした。
─ 7年後 ─
終ってはいなかった。
杭州市政府から川島英子氏への打診、林浄因紀念碑の孤山への移転許可が下りた。
大喜びで承諾し、即座に移転工事の依頼をする川島英子氏。
移転工事は、1994年の10月3日に竣工する運びとなった。
ここに、林浄因と妻子の霊は祖霊とともに添うこととなりました。
中華では死者の魂は、祖霊とともに家族の傍でそのまま生活をし続ける。
川島英子氏の意志は、この中華の民俗に沿うものでした。
しかし問題がある。
林浄因は、林和靖の後裔ではないはずなのだ。
京都、建仁寺の僧侶が開祖である栄西禅師の足跡を追って中国に入ったことがある。
建仁寺の僧侶は、孤山の林浄因紀念碑にも訪れる運びとなった。
それを知った杭州市は霊隠寺に働きかけた。
当日、建仁寺の僧侶と檀家衆75名と霊隠寺の僧侶30名が孤山で一同に会し法要した。
虚飾嫌いのさしもの林和靖も驚いたことだろう。
林和靖は墓の中で、何か詩を詠んだだろうか。
詠んだなら、それは林和靖には珍しく歓びの詩であったかも知れない。
塩瀬総本家が孤山に林浄因紀念碑を据えに来る。
村人からそう伝え聞いた黄賢村書記の林孝良は色めきたった。
寧波市の林氏の一族には黄賢林氏の他に、寧海県強蛟鎮の加爵科林氏もある。
一族の者は毎年交替で、杭州西湖の孤山に出向き祖霊を祀ってきた。
日本饅頭の始祖は、林浄因であった。
その後裔の塩瀬は、未だ日本で饅頭を作り続けている。
ならばそれは、黄賢林氏の同族でもあるのだ。
林孝良は伝手を辿り、塩瀬と連絡を取ることに成功した。
林浄因紀念碑移転の当日、林孝良の一家は家譜を携え、杭州西湖の孤山へと走った。
お話し本編:【実話系】梅と鶴の末裔(11)苗裔は祖梅を拝し
【メモ】西湖に饅頭碑!(梅と鶴の末裔)
今回の記事の98%は、川島英子氏著の「まんじゅう屋繁盛記 ─塩瀬の650年─」からのコピペです。
しかも、塩瀬の歴史で一番面白い部分が割愛だし。
どうか、お目こぼしを。
もともと氏は1996年に「塩瀬六百五十年のあゆみ─まんじゅうの歴史」を自費出版しておられましたが非売品。
関東と奈良の図書館に寄贈されただけで、見ることができなかった。
それが上記成書となって姫路の手柄図書館にも有ったので拝見することができました。
川島英子氏の文章は、こんな駄文とは違い味わいのある書き方で、大変な出来事をさらりと書いておられます。
こんな伝説記事をやっていますから、「柳浪聞鶯だか孤山だかに日本人が建てた饅頭碑がある」。
それは早くから知っていました。
その時の感想。
「西湖に饅頭碑とは!
日本企業が林和靖を売名行為に利用しているな
なんということをするのだ、いったい幾ら裏金を積んだのだ」
すみません、ごめんなさい、全然違いました。
それにしても、林浄因碑建立を請願しに中国大使館に行って談判とじは。
ウチでも何か用事があったら、在大阪中国総領事館に出向きます。
パスポートの更新とか、ビザ請求とか。
領事館の周りには、辻々に警官がいっぱい立ってるんですよ。
たぶん武装もしています。
警官と少しでも目が合えば、何故か、何しに領事館に行くのか質問されてしまいます。
中に入ると夥しい人の群れ、当然飛び交う中国語。
あの中国人どもが、整然と並んで順番を待っているのが、なんか異様。
疾しい用事でなくても、何だかすごく変な緊張をしてしまいます。
次の舞台は、寧波(ニンポー)です。
寧波は杭州湾の入口に位置し、対岸が上海市で、杭州湾の最奥が杭州市、という配置になります。
寧波は遣隋使や遣唐使の頃から、日本との交易の窓口でした。
また、シルクロードの海路の出発点でもある、かつては重要な国際港でした。
でもって、寧波市は早々と「日本饅頭の故郷」としても売り出しにかかっているし。
ちょっとちょっと、それ言ったら、「日本の文物」の大半は「寧波が故郷」になっちゃうよ。
念のためGoogle地図で確認したら、奉化市黄賢村には「梅鶴公園」や「梅鶴劇場」に「林逋広場」まで出来てるし。
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