諸葛亮の七擒七縦、石達開の最期、蒋介石vs毛沢東
3つの渡河作戦
(李青雲伝説参考)
大渡河と瀘定橋 |
太平天国の翼王・石達開は、四川省を本拠地にしようとしていた。
天京(南京)には戻れない。
天王の洪秀全に謀殺される危険が有る。
南方を転戦して闘い続けるしかないのだが、やはり拠点は必要だった。
既に天京に向けて離脱して行った部隊も多く、兵力は10万程に減少していた。
四川省東部から南部へと抜け、北上して川西北平野から成都に迫るルート。
金沙江を渡り、山岳地帯を越えるあたりで、石達開たちは原住民の彝族(いぞく)の妨害に遭ったらしい。
このあたりは約2000年前に、諸葛亮の七擒七縦の故事があった地域だ。
彝族には孟姓が多いことから、七擒七縦の孟獲は彝族であったろうと推測されている。
関連:【蛮頭祭祀】(饅頭)
石達開の軍隊が大渡河に到達した時には、5月(1863年)になっていた。
既に、清朝軍が間近に迫り始めている。
既に、河は渇水期から洪水期へと移行し始めている。
大渡河は四川省楽山市で岷江(びんこう)に合流し、岷江は長江に合流する。
大渡河と岷江の合流点にある楽山大仏は、水難事故が多い事を憂いた海通和尚が発起して90年かけて建造された。
そのさらに山奥、両岸に峻険な山肌が迫り滔々と流れる大渡河は、天険とも称される。
楽山大佛 |
この時、すぐに河を渡っていれば結果は違ったのかもしれない。
だが、石達開は渡れなかった。
同行していた妻が男の子を出産したためだった。
そのために3日間、足留めしたという。
その間に、大渡河は増水。
清朝軍が包囲しつつある中、渡河できなくなってしまった。
そして退路は、彝族の手により封鎖されていた。
山間の小道は巨石で塞がれ、軍隊は通過できなくなっていた。
戦闘は20日に及んだという。
包囲網の突破を試みる度に、兵力を消耗していった。
糧食は尽きた。
そして夜陰に乗じ、増水した大渡河の無謀な渡河を決行。
渡河は失敗し、石達開の妻子は河に流された。
兵士の生命を保証する条件で、石達開は清軍に投降。
1863年6月25日、成都で処刑された。
処刑は中華流の相当に残虐なものであったが、石達開は最期まで従容として声すらあげなかったと伝えられている。
その72年後 ─
共産党中央軍は四川省南部を北上し、大渡河を越えて川西北平野の四方面軍と合流しようとしていた。
金沙江を渡り、山岳地帯を越えるあたりでやはり現地の彝族の妨害に遭った。
この時、共産党軍の司令は彝族の族長と血盟を結び義兄弟となったらしい。
結果、山岳地帯は石達開よりも速く通過できた。
しかし、大渡河に到達したのはやはり5月(1935年)、大渡河は既に洪水期に入っていた。
河の対岸の制圧は迅速に出来たのだが、橋は架けられなかった。
石達開の時よりも、さらに状況は悪かった。
国民党は中央軍と四川軍を集結し、共産党中央軍を挟み撃ちにする作戦に出た。
国民党軍、蒋介石の号令、
「毛沢東を第2の石達開とせよ!」
─ 軍隊の渡河作戦 ─
河は戦闘に於いて、重大な天然の障碍となります。
渡河作戦は部隊が殲滅するリスクが高く、迅速に作戦を終了する必要があります。
数万からの兵員を河を越えて移動させることは、ボートでは出来ません。
従って、先ず既設の橋梁を制圧しての移動を検討する。
橋が無い場合は、架橋することになります。
その手順は、
(1)渡河地点の選定
(2)火器による対岸の制圧
(3)少人数が先ず渡河
(4)対岸に橋頭堡を設営
(5)援護しながら、ポンツーン(浮き桟橋)を架橋
(6)橋が架かったら本隊の移動
戦争映画では、渡河作戦のシーンは必ず見せ場となります。
共産党中央軍は国民党軍に包囲された。
殲滅は時間の問題と見られる中、共産党軍はボートによる少人数づつの渡河を続けた。
これは戦力を分断することになるから、おそらく戦闘のセオリーには反する。
その後の共産党軍の戦術。
大渡河を挟んで、両岸の部隊は互いに対岸の部隊の背後の敵兵を制圧しながら山肌を北上。
べつに人民解放軍を持ち上げるつもりも無いが、これは相当に勇気が要る。
自分の背後の敵は放っておいて、互いに対岸の敵を攻撃することになる。
文字通りの『生命を預けられる』ほどの信頼が無ければ出来ない。
瀘定橋 |
そのまま、一昼夜をかけて120kmを進軍。
さらに、夜通し戦闘を続けながら大渡河を北上すること、約200km。
共産党軍は遂に、濾定橋に辿り着いた。
弾雨が飛び交う中、ます22名の決死隊が濾定橋を匍匐前進、対岸を制圧。
次いで、本隊も一気に渡河して対岸を占領した。
石達開の悲劇と併せて、この戦闘は後にまで語られることとなった。
現在、大渡河には新しい橋が架けられているが、当時の濾定橋はそのまま保存されている。
【メモ】血腥いプロパガンダ用の、只のお話しです。
所謂、『飛奪濾定橋事件』、中国では中学校あたりの教科書に載るお話しのようです。
ただ現代はネット社会、関係者の証言がなんかバラバラで、真相が今ひとつわからなくなっちゃって、
どうも、
「紅軍が濾定橋にたどり着いた時には、
もう制圧されていて戦闘なんか無かった」
というのが、定説になったようです。
中共さんたら「石達開の悲劇を政治的に利用した」ってことに、中国国内でもなっちゃいました。
諸葛亮の七擒孟獲の故事にもこの話しがマクラで付いたりしますが、それも“政治的配慮”かな?
「当時の濾定橋はそのまま保存されている。」
うーんこの国を挙げての素晴らしい、黒歴史遺産。
このお話しは、石達開が「李青雲伝説」に少し登場するので、その解説用に挟みました。
清朝と戦った太平天国は、一種、梁山泊のように人民たちに受け取られているフシがあるようです。
庶民は陰で太平天国を扶(たす)けて清朝と闘う、といったストーリーで、
小龍包をはじめ、太平天国の絡む点心伝説がちょろちょろと有ります。
舞台は杭州、太平天国が血腥くない戦闘を展開するお話し「饅頭山攻防戦」もあわせてどうぞ。
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