開県老人・李青雲256歳、長寿伝説の行方
李青雲伝説(2)伝説の創生
(長寿伝説)
重慶市開県 |
李青雲が大学で講義をするようになってからのことでした。
異常な長寿に興味を持った西欧の学者が訪問してくるようになりました。
次第に明かされていく、李青雲の過去。
そして、ニューヨークタイムズの記者が取材に訪れます。
開県を訪れ、古老たちに証言を求める記者。
─ 自分達は子供の頃から、李青雲を知っている
─ 自分達の祖父は、李青雲の友人だった
─ 李青雲は祖父達が子供の頃に、開県にやって来た
─ その頃の李青雲は、既に壮年であった
まさか、本物なのか?
李青雲(リ・チンユィン)の経歴
出身地は一般的に上海近郊とされるが、雲南説もある。
本来の名は『陳遠昌(チェン・ユェンチャン)』といったが、後に改名した。
10才の頃から山に入って薬草を採取し、生計を立てた。
薬草採取をしながら各地の山々を巡り歩いた。
李青雲が訪れた土地:
四川,安徽,陜西,甘粛,遼寧,
湖北,湖南,広西,江蘇,福建,
山東,河北,河南,新疆,西蔵.
─ 広範囲に過ぎるが、裏付けの取りようもない。
その後、1820年頃、李青雲は開県に流れ着き、そのまま住み着いた。
─ 初めは、陳家郷龍鳳村に仮住まいをした
─ その後、善郷平和村に移り住み、開県で最初の妻を娶った
─ 同居はせず、通い婚だったが、家事の世話にはなっていた
─ 禿頭で肥えており、肌がツヤツヤで、シワのないタイプ
─ 50歳ぐらいにしか見えなかったが、本人は90歳ぐらいと言っていた
─ 酒も煙草も茶もやらない
─ 早寝、早起き、毎日定時に定量の食事
─ ヒマさえあれば座禅を組み、そのまま数時間動かぬこともあった
李青雲は眼科と外科に特に長けていた。
開県に居を構えてほどなく、14才の少年を雇い、郷の者の治病に諸方を巡った。
もっぱら富裕な家の者から高額な治療費を受けて家族を養った。
─ 李青雲の兄と称する人物が上海から訪ねて来たことがある
─ 故に李青雲は尊称として、『李二老師』と呼ばれている
─ よく高橋鎮近辺の駄菓子屋に出入りして、麻雀や小博打をやっていた
─ だいたい120文、いつも負けていた
─ 友人に勝たせて、食事代に当てさせていたフシがある
─ 人道に厚く、ついぞ怒ったことがない
1928年、李青雲の記事はニューヨークタイムズや、その他の媒体で報道されました。
NewYork Timesで1928年に報道されたというのですが、
NYTimesホームページで記事検索してもヒットしませんでした。
ただ、李青雲訃報の記事はヒットしましたので、文末あたりでリンクを貼っておきます。
中華の国内の媒体での報道はあったようです。
通常、中国名を英文化する際はピンイン(アルファベットで表記する振り仮名)をそのまま使用するのですが、
「李青雲」の英文名は、“Li Ching Yuen”又は“Li Ching Yun”となっています。
李青雲の生年は1736年、本人はそう語っていた。
ならば、万安橋の開通式出席当時はすでに192歳。
それが虚偽であったとしても、開県に来てからすでに110年。
当時の年齢を少なく見積もって50歳と仮定しても、160歳。
それは、有り得るのか?
真相が判らない。
しかし1930年、成都大学の胡教授が変な資料を発見してしまいました。
1827年の150歳、1877年の200歳の、清朝政府が挙行した長寿を祝賀する式典の資料。
それが本当に李青雲であるなら、逆算すると生年は、1677年。
すると1928年当時の年齢は、251歳。
李青雲は年を取りすぎて、自分の生年を間違えているのか?
だが、本人はそれを否定している。
そもそも、251歳の老人などは完全に有り得ない。
ますます判らなくなる真相。
「李青雲、実は251歳説」が出始めたその頃から、次のような文章が流布するようになりました。
初出は1960年代になってからの台湾の雑誌であった、という話もあります。
李青雲が語ったとされる長寿の秘密。
【李青雲と仙人の邂逅】
あれは139才の頃だった。
師匠に出会う以前から、幾分の功夫は有り健身ではあった。
他人から神仙、剣客の類と間違われては苦笑したものだ。
40才になってから、『不動心』を確立した。
泰然とした精神、心泰かつ神寧、神寧は一切の疾病を退ける。
だからこそ、139才までの健身を維持できた。
50才のあの時、山で薬草採取をしていて出会ったのだ。
仙人のような老者、深山の大岩を跳ぶように奔(はし)っていた。
後を追ったのだが、すぐに見失ってしまった。
まごついていると、その老者が再び姿を現した。
直ちに跪いて師として拝し、教えを乞うた。
老者は一握りの木の実を差し出しながら、
「ワシはこれを食っている、それだけに過ぎんよ」
それは,枸杞子だった。
私は毎日3銭(10g程か?)づつ食べるようになった。
爾来、ますます身が軽くなり、百里を行こうとも疲れず。
気力脚力ともに、常人に勝るようになった。
『異人赤脚張』という枸杞子伝説と、伝説の構成がほぼ同じです。
これまた枸杞のコマーシャルメッセージ、と言うほかありません。
おそらく、李青雲自身が語った話しではないでしょう。
話しの初出が1960年代だったら、李青雲の死後30年近く経った時期になります。
【李青雲軍人説】
李青雲はもとは、「陳遠昌」という名だった。
李青雲は気功術と武術の達人でもあった。
太平天国の軍に所属していた時期がある。
石達開(太平天国軍の指揮官)の軍事顧問をしていたのだ。
石達開に率いられて李青雲も四川にやって来た。
大渡河で清軍に石達開が敗れた折に逃亡。
その後、開県に逃げてきて、「李青雲」に改名したのはその時だ。
李青雲は、太平天国軍の事情にはやたらと詳しかった。
Wikipedia(英語版)にも同様の記述がありました。
“Li Ching-Yun was a Chinese herbalist, martialartist and tacticaladvisor.”
“In1749, when he was 71yearsold, he moved to KaiXian(開県)to join the Chinese army as a teacher of the martialarts and as a tactical advisor.”
─ 李青雲は気功術の達人でマーシャルアーツの教官だった
─ 地方軍隊に所属して軍事アドバイザーを勤め云々
有り得るかどうか、しかし、李青雲が開県に出現して住み着いた時期と照らすなら、
まずまず考えられない。
石達開の軍が大渡河で清朝軍に包囲され、殲滅されたのは1863年。
大渡河は岷江(びんこう)の支流で、岷江は長江の支流です。
このあたりの川は増水しやすく、軍事的な面で色々な逸話があります。
石達開の軍は金沙江を渡河して成都に迫ろうとしました。
ですが、大渡河で足止めを喰らいます。
同行していた妻が出産したため、3日間、動けませんでした。
その間に大渡河は増水、そして清朝軍に包囲されました。
身動きがとれず石達開は捕虜となり、成都で処刑されてしまいます。
[関連・参考]【3つの渡河作戦】(李青雲伝説参考)
ネットを漁ってみると、実は「李青雲」という同姓同名の夭逝した革命勇士が別に居ました。
李青雲軍人説は、そちらと混同されている、若しくは故意に混同した疑いが濃い。
革命勇士の李青雲が活躍したのは 1920年代で、死亡は1937年、殺害とも病逝ともいいます。
(参考)革命烈士の李青雲[百度(Baidu):注 中文ページ]
偉大なる毛沢東同志の第4女房、江青夫人の幾多有る偽名の1つの「李青雲」は、全く関係ありません。
意外に多い、「李青雲」という名前。
有名どころだけでも、ちょいとググれば、同時代に3名も出てきた。
名も無き民も含めたら、きっと30名ぐらいの李青雲さんがゾロゾロ出て来るに違い有りません。
なぜ、このような“伝説”が流布し始めたのか?
これら李青雲伝説は、必ずしも李青雲本人の1次情報ではない点に注意を払う必要があります。
「李青雲がそう語った」として実際には、奇行家 気功家が語っていたり、
或いは、枸杞をはじめとする特定の食材がメインテーマとなっています。
八卦図 |
これらは、
「李青雲の長命が枸杞子とか気功家とかの
怪しげな種類の業者に利用され始めた」
そういうことだと考えます。
そして、さらに怪しげな『李青雲伝説』が膨らんでいきます。
【李青雲伝説・末期症状編(1)】
李青雲は奇門遁甲の使い手だった。
特に、火遁の術と水遁の術を得手とした。
逆に、財貨も自在に遁来(出すことが)できた。
薬草売りの儲けなどはタカが知れている。
なのに、家族は窮乏していない。
だから、マージャンで負けまくっても平然としていたのだ。
─ だったら負けないよね、マージャン
三峡奇人・楊徳貴の遁術(YouTube)
水を張った洗面器に何故か古新聞を被せて、お金を“遁来”。
赤い紐は、天に通じるアンテナで、「天からお金が流れて」きます。
たしかこの人、日本のテレビ番組でインチキを暴かれたんですよね。
日本のテレビさんも、大人気ないことするなあ。
【李青雲伝説・末期症状編(2)】
李青雲は観相法にも長けていた。
(観相法には将来を変える機能もある、と思われている)
開県の南門あたりにいた張という若者が観て貰った。
李青雲の卦は「将来、大官になる」だった。
それが成就した時は報酬として、2石の穀物。
その後、張は四川軍の旅長となった。
張は約束通り、2石の穀物を李青雲に贈った。
─ 聞かれたら誰でもゆーよね、「将来偉くなるよ」
【李青雲伝説・末期症状編(3)】
李青雲の写真を高県の胡英華という老人が持っている。
壮年の折りに山で薬草採取をしていた頃の資料もある。
山に入った李青雲は虎に出くわした。
李青雲は山刀で虎を撃退した。
そして、人形(ひとがた)の霊芝草を手に入れたのだ。
─ そーいや、楠公さんだっけ、虎退治したの
【李青雲伝説・末期症状編(4)】
李青雲の足跡は、インドやタイにまでのびていた。
─ ・・・そう?・・・
ヒト形イモ,女性だね |
どこまでも大袈裟になる中華の風説。
もう、何をどう言っていいのか、わからない。
『サイボーグじいちゃんG』を越えている。
武天老師さまに匹敵する、スーパージジイになっている。
李青雲が開県で雇った14才の少年、向此陽(シャンツーヤン)。
向此陽の生年は、1806年、93歳で死去。
その頃、李青雲はなお健在だった。
李青雲を弔(とむら)ったのは、当時30歳になる、向此陽の外孫(娘の子)の黎広松だった。
葬儀の様子がどのようなものであったかは伝わって来ない。
256歳だったかもしれぬ御老人の葬儀、さぞや盛大であったろうと想像されるのだが。
─ 何故、葬儀を出したのは家族ではなかったのか
(本分:有料・アブストラクト:無料)
[http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FA0915FE3E5C16738DDDAF0894DD405B838FF1D3&scp=4&sq=li%20chingyun&st=cse]
● 生涯の妻が24人(英語版の資料では23人)
多すぎる、ひとり頭10年に満たない、重婚だったのか。
開県在住の113年だけの数なら、ひとり頭5年弱にしかならない。
“通い婚”なら重婚にも成り得ようが、しかし、
たとえ通い婚でも、民族の掟で、重婚は厳に禁止される。
第一、そんな妻の数、誰が数えたのだろうか。
● 後裔(こうえい)の数、180名
孫の代までを数えるなら、妥当かも知れない。
繁殖期が150年として3年につき1人の子供なら、計50名。
それぞれが3人の子を成せば(但し生後、生存した数)、
50名 + (50名 × 3人) = 200名
もっとも、李青雲は約200歳まであっちが現役、としてのことになる。
李青雲が“通い婚”であったなら、子供の世話は妻の実家がみた事になる。
家族関係は、案外と希薄であったかもしれない。
子孫も多くは、“李”の姓は名乗っていないはずだ。
村をひとつ、造れそうなほどの大家族でありながら、
これだけ風説まがいの『証言』が飛び交いながら、
『家族の証言』は全く見当たらない。
家族は“真相”を全く知らない、とされている。
李青雲の異常な長寿に踊らされて、
記者や学者や怪しい業者が“伝説作り”に奔走するうちに、
1933年5月6日、李青雲死去
享年197歳或いは256歳
“事実”だけを遺し、“真実”は知れなくなった。
李青雲は開県長沙鎮義学村の『李家湾』に葬られました。
同地は向此陽の外孫、黎広松の居住地でもあった場所です。
【向此陽の証言】
「当時の李青雲は、50才台ぐらいに見えた」
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