享年256歳の老人は何処から発生したか
李青雲伝説(1)万州万安橋
(長寿伝説)
[関連・参考]【曽曽曽・曽祖父】(長寿伝説)
万安橋(奥側)と苧渓河 |
四川軍(四川を支配する軍閥)の楊森将軍がその老人の噂を聞いたのは万県に駐屯している頃だった。
苧渓河(ツーシーフー)の架橋工事が間もなく竣工するのだ。
苧渓河の万安橋、元来は頼りない木の橋だった。
万県は神農架のさらに上流に位置する、長江三峡沿いの峻険な地勢。
万安橋(木橋) |
少々頑丈に作ったところで、木の橋などすぐに流されてしまう。
流される前提の頼りない木の橋、10mほどもある木の柱に板を打ち付けただけの恐ろしい橋だった。
架橋工事は一昨年(1926年)に着工。
ところが去年(1927年)の7月、豪雨に見舞われ、苧渓河は氾濫。
工事中の橋の足場はたちまち流された。
夜半にとどろいた轟音、ようやく姿を現し始めた橋は流失したかに思われた。
万安橋工程管理者の任某は責任追求を恐れ、船を準備して逃走しようとしたという。
洪水に沈む万安橋 |
だが、橋は無事だった。
工事中にも拘わらず、あれだけの洪水を乗り切ったのだ。
安堵の溜息をつく、楊森将軍。
万安橋が竣工したら、橋の長寿を祈念して、
長寿の国から長寿を広めに来たような長老に『渡り初め』をして貰おう。
「誰か適当なのいる?」、と楊森将軍。
「なら、隣の開県の李二老師(リアールラオシー)ですね」、と副官。
「大丈夫?、自分で歩けなきゃダメよ、渡り初めだもん」
万安橋(工事中) |
「大丈夫っスよ、毎朝、太極拳やってるそーです」
「へー、何歳ぐらい?」
「さー?、200歳ぐらい、かなあ
地元じゃ李二老師、仙人扱いですよ」
「え、・・・仙人?」
楊森将軍はその老人を万安橋の落成式に招くことにした。
落成式には存外に大勢の観衆が詰め掛けた。
観衆たちの一角から沸き起こるざわめき。
李青雲は全身黒尽くめの衣装を纏い、草鞋(わらじ)履きで輿(こし)に乗って現れた。
炯々とした眼光、ハリのある声、左手の異様に長く伸びた爪。
これが200歳の老人なのか、せいぜい80歳ぐらいにしか見えぬ。
盛んに騒ぐ観衆たち。
李青雲は楊森将軍に挨拶を済ませると、携えた小箱の蓋をあけて中を見せた。
箱の中には20cmほどもある爪が十数枚、爪を切らない長生法というものもある。
四川軍 |
一瞬の静寂が舞い降りた
万安橋の西詰めに立つ李青雲。
身長が200cm近くもある偉丈夫だった。
足腰を真っ直ぐに伸ばしたその姿は鶴を彷彿させる。
観衆が見守る中
一歩一歩、滑らかに歩を進め
万安橋の東詰めに李青雲が到達した
静寂の中、立ち上がって拍手を贈る楊森将軍
突如、鳴り響く爆竹、鼓笛隊の音楽、歓声が沸きあがった。
万安橋完成の祝賀の儀式、200歳などとは嘘でも構わぬ、地元民がそう信じて納得するなら。
そう考えて儀式の依頼をしたのだが、だが、民衆の彼に対する丁寧な態度、李青雲のその立ち姿、歩法。
李青雲が来る、だからこれだけの観衆が集まったのか。
李青雲の周りには民衆が群がっている。
「・・・本物だ・・・ 」
楊森将軍は直感的にそう感じた。
【注釈】楊森将軍は老人を賓客として迎え、李青雲老人の新衣を誂(あつら)えました。
そして写真館で撮影をした。
ネット上にも良くある「李青雲の写真」はその時のもの、と伝えられています。
橋の落成式には新聞記者も立ち会っていました。
日を経ずして、李青雲の噂は四川省中に広まっていくことになります。
楊森将軍は写真付きで蒋介石に報告。
蒋介石も興味を示し、南京に李青雲を招き接見した。
民衆のために、と断ったうえで、蒋介石が長寿の秘訣を聞き出したところ、李青雲が語るには、
「それは、“静”の一字に尽きる」
座当如亀 : 亀のように座れ
行当如鶴 : 鶴のように動け(注)
臥当如犬 : 犬のように眠れ
「常に心静、開朗であれ
長期の素食を心掛けよ
茶には枸杞(クコ)を用いよ」
(注)資料によって、"行当如鶴"と"行当如雀"、どっちも有ります。
「優雅」と「ちょこまか」、お好みでどうぞ。
英文資料では、"Walk sprightly like a pigeon"でした。
でも、ハトみたいに歩いたら首が疲れると思います。
新聞記者の取材に対しても、李青雲は同様に答えたといいます。
李青雲は晩年に長寿の秘訣を著した本を書いており、その中で語ったともいいます。
ただ、そんな本の存在は疑わしい。
李青雲の名を騙った誰かが書いた書籍なら、有ったかもしれません。
李青雲が万安橋の開通式に出席した。
長寿の秘訣を何か語った。
その語りの中で枸杞子について触れた。
そして後半で触れますが、記者が取材した開県の古老の証言と報道。
事実は、そこまでです。
蒋介石の接見も、或いは楊森将軍との交流も、ここから先のお話は怪しくなってきます。
万安橋の爆破 |
万州の者なら何かといえばこの橋を渡る。
想い入れは深かった。
夏の夜に涼を求めて、ぞろぞろと集まる大勢の人々。
何をするでもなく、ただそれが楽しかった。
それが1日の終りだった。
冬の早朝、湯気をたてて立ち並ぶ屋台。
ここで好きな朝食をとってから、皆の1日が始まった。
この橋の上で生まれた物語は、どれほど有ったことだろう。
長江に流れ込む苧渓河の万安橋。
2003年5月30日、万安橋は75年のその役目を終えた。
三峡ダムの建設計画に伴い、苧渓河にもダム建設の決定がなされた。
水位は数十mの上昇が見込まれ、橋は爆破撤去されることに決定した。
一度目の爆破、10:30AM、橋は破壊しきれなかった
二度目の爆破、5:23PM、導火線の切断で失敗
三度目の爆破、6:05PM、
夕闇迫る中、橋は漸く破壊された。
李青雲が渡り初めをした万州万安橋は、異常に頑強な橋だった。
新万安大橋は地元の要請により、2001年7月に開通している。
新万安大橋と天仙湖 |
2003年6月上旬、旧万安橋も道路も町も水底に沈み、
苧渓河は『天仙湖』という優美な名を得た。
李青雲はその後、大学で講義をするようになります。
英文ページでは李青雲の職業が“herbalist”、薬草家とありますから、本草学でも教えていたのでしょうか。
次のお話し:【李青雲伝説(2)伝説の創生】(長寿伝説)
[関連・参考]【メモ】李青雲伝説(1)万州万安橋
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