妻を娶らず薄命にして嗣子なし、絶えたかに思われた林の家系
梅と鶴の末裔(8)絶家した梅譜
(饅頭@奈良)
古式婚礼の拝堂儀式 |
船頭の腕は良く、複雑な潮と風をよく読んでいた。
船は順調に陸伝いを北上していく。
処々で荷の揚げ降ろしをしながら、やがて対馬を経て大海原へと出た。
海のうねり方がこれまでとは違ってくる。
岸壁に着いている時にはあれほど大きく見えた船が、外海に出るとひどく小さく感じられる。
波を切りながら山を越えるようにうねりを乗り越えていき、数日経つとやがて陸影が見えてきた。
時折海面を飛び交うものを見て、青年が驚嘆の声を上げる。
海面から飛び出てそのまま数十mも飛翔し、また海に落ちていく。
飛魚だが、群れにぶちあたるとこれで結構危ない。
海坊主だ、海坊主がいた、また青年が騒ぎ始めた。
なるほど、黒くて丸い大きなものが突然に、海面にぬもっと現れる。
背ビレがないのだ。
スナメリはたいてい番(つが)いで泳ぐイルカの一種で、瀬戸の海では日常的に出現する。
船を見つけると興味を示し、程よい距離を保って海面に現れてくる。
(注:播磨灘には割りとよく出没します。高砂のあらい浜風公園がスナメリでのPRを画策)
これだけ大きな海原だが、海に棲む者達も陸の近くがいいらしい。
陸が近付くと色々なものが出現する。
海に棲むものと、陸に在る森とは、密接に関連しているのだ。
もしも海岸線を城市で覆い尽してしまったら、海はとたんに痩せてしまうことだろう。
船が港に滑り込むと、青年は失望したように叫んだ。
「うわー、こりゃまた聞きしに勝る小ささですね
林神社の鶴 |
建ってる家屋は立派だけど、師匠、博多津って」
「博多津じゃありません、壱岐ですよ
水と食糧を補給するのです
一応断っておきますが、日本の領土です」
「ひえー、まだ遠いんですか!
島影遠遮水青深、潮香浮動舟覆昏」
「海は広いな大きいな、月は昇るし船沈む
・・って、縁起でもない」
しばらく風待ちをして出帆、そんなこともあって博多津の大きさには流石の青年も度肝を抜かれたようだ。
博多津は大宰府の外港で、かつては平清盛の本拠地だった。
福原(神戸)と同じく、平清盛が南宋交易のために造った国際港だ。
中華街に居た宋人の子孫が今でも住んでいる。
その昔、唐土で人が乗った怪しい鶴を射た者があった。
その鶴は飛騨の匠が彫った木彫りの鶴で、鶴は匠を乗せて唐土まで飛んだのだった。
射られて片羽になった鶴は匠を乗せたまま、必死に博多まで飛び続けた。
そうして、力尽きて堕ちてしまった。
「片々(ひらひら)と舞い落ちる、片羽になった鶴の羽」。
『羽片』が転訛して、『博多』となった。
鶴が落ちたのは、菅原道真が幽閉されていた榎社の前だった。
大宰府には今もその鶴の墓がある。
大宰府は、飛び梅と仙鶴の府でもあるのだ。
(注:へー、じゃぁ梅と鶴は菅公の方が先輩じゃん)
「へー、梅に加えて仙鶴の墓ですか?
そりゃあ一度、お参りしなきゃいけませんね」
博多に上陸した青年は持ち込んだ砂糖を、半分売り飛ばしてしまった。
湊(みなと)の役人は砂糖というものを知らず、咎められることもなかった。
日本に着いたら経済的な援助が必要であろうと思っていたが、この青年はいとも簡単に生活費と研究費を捻出してしまった。
そして早速、甘い饅頭作りの研究に没頭し始めたのだが、不評だった。
餡もダメ、皮もダメ、特に皮がダメで、皆、中の餡だけを食べて皮は犬のエサにしてしまう。
もっとも、犬にしても貰った饅頭の皮を食べるとは限らなかった。
やはり麺粉(小麦粉)の皮は、受け入れられなかったのだ。
「うーんダメっすね、師匠、もうスランプですよ
『林浄因の饅頭は犬跨ぎ』、なんて戯れ歌が出回ってます」
弱音ではない、人々は皆、林浄因の饅頭を酷評するクセに林浄因と話したがるのだ。
元の国からやってきて、変なことを始めた妙に博識な青年、会話をすると受ける快い刺激。
人々は林浄因と話したがり、林浄因は人の話を良く聞いた。
いつの間にか青年は人脈を作り上げ、甘葛の入手経路すら確保していた。
九州は甘葛の一大産地だ。
「師匠、ポイントは塩です」
塩で甘味が増すのだという、青年の逆説。
だが確かにその通りだ、ほどなく青年が打ち出した解決策、それは饅頭の概念から逸脱していた。
もしも後年、「饅頭標準」などという国家規格が制定されたらお役人は目を剥くことだろう。
(注:2008年1月 人民政府はほんとに饅頭国家標準を施行。何考えてんの?)
それは中身が皮で、餡を外側に配していた。
或いは、紙のように限りなく皮を薄くしていた。
山芋を使うことで、薄皮饅頭の作製に成功したのだと言う。
「師匠、日本のお米は美味しいですね」
水が違う、当然だ。
日本の水は、川の水でもそのまま飲めるほどに高品質なのだ。
京都では鴨川の水で淹れたお茶が最高とされているほどだ。
もしも日本が諸外国に米を輸出したら、引く手数多となるだろう。
また脳天気なことを言ってるなと思ったら、麺粉の代わりに米粉を使ったりしていた。
林浄因の饅頭は、徐々に人々に受け入れられていった。
「この点心の名称はどうするのですか
よかったら拙僧がつけましょう、西方明珠」
「西からきた真珠ですか?
つまらないし、語呂が悪い」
「じゃあ、鶴之玉子、ひよこでもいいか」
「くだらない、廃れたお土産じゃあるまいし
饅頭(mandiu)は、饅頭(まんぢう)ですよ」
(注:福岡名産、ひよ子は廃れてません)
(注:mandiuは饅頭の呉音)
屋号ももう決めました、そのものずばり「饅頭屋」。
1年後(1350年) ─
建仁寺、栄西禅師の茶碑 |
龍山徳見禅師と林浄因は博多から上京しました。
龍山徳見は京都の建仁寺に赴任します。
建仁寺の開祖は、龍山徳見禅師の師匠の師匠の師匠の栄西禅師ですが、
日本に茶の湯を広めたのは、この栄西禅師です。
(注:栄西は漢音で『ようざい』と読む、って両足院で教えてもらいました)
初めて日本に茶を持ち込んだのは最澄ですが、この時は医薬品としてでした。
林浄因は奈良に居を構え、饅頭屋を開設しました。
龍山徳見の引き立てを受け、林浄因は宮中に参内するようになり、後村上天皇から宮女を下賜されます。
婚礼がどのような方式であったかは分かりませんが、中華方式の婚礼は中華時代劇などでよく見かけます。
一拝天地(イーパイティエンティー)
二拝高堂(アールパイカオターン)
夫妻対拝(フーチートイパイー)
このように三拝する、古式婚礼の拝堂儀式。
二拝めの『高堂』は祖霊のことで、祖先に対しても拝礼をします。
林浄因も、祖霊に対して拝礼したでしょうか。
妻女は天皇から下賜された者であった、林浄因の脳裡をよぎる祖先への想いはどんなものであったか。
林逋に『和靖先生』と諡(おくりな)したのは北宋皇帝の宋仁宗でしたが、この宋仁宗の故事があります。
仁宗誕日、賜群臣包子(燕翼詒謀録)
「宋仁宗が誕生日の記念に臣下に饅頭を配った」
林浄因もまた婚礼に際して紅白饅頭を作り諸方に配った、慶事の引き出物の紅白饅頭の縁起として有名なお話しです。
その影には、この故事が有ったかもしれません。
栄西禅師の入定塔 |
病を得た龍山徳見は建仁寺にやってきて、自分で墓を掘ったといいます。
龍山徳見禅師の円寂(1358年)を機に翌年、林浄因は妻子を置いて元に帰国。
林浄因はまた、新たな冒険に旅立っていきました。
残された妻子は、林浄因が旅立った4月19日を命日と定め、纏綿(てんめん)と饅頭屋を続けます。
その後、林家の饅頭屋は京都にも分家。
奈良の林家は幕末の頃に饅頭屋を廃業しました。
京都の林家は戦乱を避けて三河国塩瀬村に一時疎開した縁で、塩瀬姓となります。
この京都の饅頭屋も江戸時代後期(1798年)に、19代目の九郎右衛門浄空を最後に絶えました。
林九郎右衛門浄空は、「生来多病で妻を娶らず薄命にして産を失い家族嗣子が無かった」、といいます。
生来多病で妻も子も無い?
何処かで聞いたような話しです。
林家の墓所の建仁寺両足院。
火災に遭った建仁寺の修復を機に、也足院が知足院に隣接して建てられ両院合わせて両足院となった。
この両足院の2代目は、林浄因の子であった。
後に、両足院には町内有志の手により林家の合塔が建立された。
立派な笠付きの墓の、傍らに立つ合塔。
「合塔の碑文」
「元朝の頃、宋の林和靖の裔林浄因洛東建仁寺
両足院開基龍山徳見禅師元より帰朝に随従し
て暦応四年日本に来り世々南都に住す・・・
浄因は林和靖の山房の傍らにありし庵饅樹の
実に擬して茲に饅頭を造る・・・
世々師壇の縁を結んで四百余年を経渉せしが
不幸真叟浄空禅定門両足院の霊簿に最後の名
を留めて林家は永遠に断絶せり
最終の九郎右衛門浄空は生来多病妻を娶らず
薄命にして産を失ひ家族嗣子なし・・・」
絶家して菩提を弔う者も絶えたかに思われた林家の墓所。
だがやはり、その祖先を祭祀する者はあった。
東京で饅頭屋を営む塩瀬総本家では、祖先は林浄因であると言い伝えられていた。
次のお話し:【実話系】梅と鶴の末裔(9)梅の開く季
関連・参考:【メモ】林浄因命の帰国理由(梅と鶴の末裔)
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