2018-02-11

梅と鶴の末裔(4)梅聖為序

 林和靖先生詩集に付された梅尭臣の序 

 梅と鶴の末裔(4)梅聖為序 

 (杭州) 


同心結

名にし負う、梅妻鶴子(メイチーフーツ)

梅を詠んだ詩はやはり多い。

鶴の詩、蝶の詩、猫の詩、西湖の詩、

そんな詩文の中で散見される、故郷への想念。

そんな詩文の中で妙に目立つ、離別の詩。


林逋の断絶 ─ 


   長相思(惜別)


呉山青越山青、両岸青山相送迎、誰知離別情 

君泪盈妾泪盈、羅帯同心結未成、江頭潮巳平 


呉越の両岸山青く、両の岸辺に別れ往く、離別の情を誰が知る

涙眼に霞む眼に泪、同心結は未だ成らず、河の引き波既に消え


離別の詞、断絶したのか。

今まさにその瞬間、たったいま断絶した、そしてもう再び逢うことはない。

帯にした同心結、だがそれは成らなかった。


古来より将来を契った恋人は、相手の帯に同心結(という帯飾り)を結んだ。

同心結の共結

それは何時でも永遠に、共に在るという証(あか)しだ。

林逋も同心結を結んだのだ。

だがそれは、成就しなかった。


呉山  銭塘江の北岸 

越山  銭塘江の南岸 

(注:ここで呉山、越山は山の名ではない。銭塘江の呉側を呉山、越側を越山と称した)


(チン)は近(チン)に掛けているかも知れない、若いという意味も有るだろう。

銭塘江の江船

出逢うべくして、近づき出逢った若いふたり。

そして両者の意に沿わぬ、思いがけない離別。

離別したのは銭塘江、ならば舟で別れたのだ。

滑り行く舟の航跡の先に、娘は何時までも立っていた。

だが、最後にその娘と自身を繋いでいた舟の航跡もたった今、─ 巳平 ─ 消えてしまった。

林逋の帯の同心結、その時、林逋は自身の手で外しただろうか。


林逋は若くして両親を失い、放浪の旅に出た。

その間に書法家の李建中と出会い、切磋琢磨してあの清雅な清痩筆法を確立した。

李建中の引退後、再び漂白の旅に出た。

杭州西湖の孤山に姿を現したのは、20年ほども前になる。

その間、ずっと放浪していたらしい。


林逋の故郷がどこであったかのか、人々には知られていなかった。

死者の魂というものは故郷へと還(かえ)り、祀られながら家族と共に過ごすものだ。

そして林逋は自身の手で、生前から杭州西湖の孤山に自分の墓を設えていた。

だから杭州城内の者は、林逋は杭州の人だと言い張る。

だがそれは違うのだ、林逋は、断絶したのだから。

山園小梅

また一方で、林逋の鶴は故郷から連れ帰ったのだとも言われていた。

だがしかし、林逋はずっと孤山の主(あるじ)だった。

この林逋の詩詞の編纂が終了したら、


─ 林逋は永遠に孤山の主となる ─ 


梅妻鶴子、既に絶ち切ってしまった林逋が、妻帯などして所帯を持とうとしないのは当然であったのだ。

若くして想い人と離別した林逋は、恐らく、離別と同時に自ら断絶してその足で旅に出た。



梅尭臣の中で、何かが断絶した。



科挙に及第できず、ずっと下級役人として地方を転勤し続けた梅尭臣。

その後、丁度この頃から方向が転換し、大量に詩作を始めた。

詩の題材は何でもありだが身近なものが多く、その卑近ぶりで有名なのはミミズの詩。


「三日も雨が降っている、床でミミズが這っている・・・」


50歳にもなってから科挙に及第。

進士としては最低クラスの同進士という資格を宋仁宗から賜り、欧陽修とともに保守派の枠内で如何に庶民の生活を護持するかに邁進した。

欧陽修は保守派であったが、梅尭臣自身は庶民の側に立った中立派であったらしく、改革派の王安石とも交流があった。

欧陽修もまた林逋の死を悼(いた)み、「湖山寂寥、未有継者」と詠んでいる。


蘇東坡(そとうば)こと蘇軾(そしょく)と、その弟の蘇轍(そてつ)は科挙考試の際に梅尭臣により見い出された。

この蘇軾と蘇轍の兄弟も、梅尭臣を通して林逋の影響を強く受ける事となった。

蘇東坡は詩詞でも書でも画でも、何でもこなすタイプで、詩と書と画を一体化するスタイルを確立した。

北宋時期のこのスタイルは、後に「文人画」と称され広く発展していくこととなる。

蘇軾が杭州の地方長官に赴任した折には、西湖を浚渫、整備して今に残る蘇公堤を築いている。


范仲淹も林逋の庵に出入りしていたひとりだった。

欧陽修とコンビを組み、非難も左遷もものともせずに庶民の意思が政治に取り入れられるように官僚制度と政治の改革を過激に推し進めた。

宋代の名臣の第1位は、范仲淹とされている。


梅尭臣は太常博士を経て、最後には尚書都官員外郎となった。

梅尭臣の号は『梅聖兪(めいせいゆ)だが、人々からは「梅都官」とか「梅太公」と呼ばれ親しまれた。

ヒマさえあれば外に出て農夫と話し込んだり職人と歓談し庶民の話をよく聞くタイプで、大火事や水害が発生したら真っ先に現地入りをする。

そういう人物であったと伝えられる。


庶民からの信望は篤く、安徽省で建徳県令をやっていた頃の県城は『梅城』と称された。

その背後に紀念として『梅公亭』が建造され、梅公亭は清朝期を経て民国期までは修改築が繰り返された。

その後文革時期に毀損して、現在は遺跡が重要文化財となっている。

近年になってから東至県第一中学校で『梅公亭祈事碑』が発見されたが、これは文革時期に誰かが持ち込んで隠したものであったらしい。

梅尭臣は出世をしても相応の邸宅には住もうとせず、死んだ時もその居宅は庶民が住む下町であったという。

生涯に亘って貧乏であったらしく、おそらく、官僚の余禄である“袖の下”を一切受けようとはしなかったのであろう。



  梅雨(梅尭臣)  


 三日雨不止,蚯蚓上我堂。

 湿菌生枯籬,潤気醭素裳。

 東池蝦蟇兒,無限相跳梁。

 野草侵花圃,忽興欄幹長。

 門前無車馬,苔色何蒼蒼。

 屋後昭亭山,又被雲蔽蔵。

 四向不可往,静座唯一床。

 寂然忘外慮,微誦黄庭章。

 妻子笑我閑,曷不自举觴。

 已勝伯倫婦,一醉猶在傍。


三日も雨が降っている、床でミミズが這っている

枯竹の垣根も黴まみれ、湿気にパンツも醸し出す

東の池にはガマガエル、際限なく跳ぶ飽きもせず

花壇も野草占め尽くし、もう柵まで越え伸び放題

馬も車もだれも来ない、なぜか門まで苔むし青々

後ろの山の昭亭山まで、雲にかすんで見えもせず

部屋を徘徊しも出来ず、静かに座っているばかり

寂然また好し憂慮なし、枯れ庭詠んで誦してみる

あんたヒマなの妻笑い、酒でも呑めと御猪口出し

劉伶夫人に勝ってるよ、お前の傍で酔うとするか

(注:昭亭山は安徽省の山で、安徽省は梅尭臣の故郷)

(注:劉伶・伯倫は三国期の賢人で酒好きの代名詞。劉伶は妻から酒を止められていた) 



梅尭臣は愛妻家であり、酒好きでもあった。



 田人夜帰(梅尭臣)  


 田收野更迥、墟里隔煙陂。

 荒径已風急、独行唯犬隨。

 荊扉候不掩、稚子望先知。

 自是一生樂、何須閭井為。


収穫も済み野は遥か、村のはずれに山煙 

荒れ野の道に風強く、犬を従え独り往く 

枝折戸からは隙間風、稚児が扉覗き込む 

是が人世の楽しささ、井戸に天蓋不要也 

(注:閭井(りょい)は集落の中心にある井戸の天蓋だが、ここではおそらく無駄な設備を指す) 



梅尭臣はもともと貧農の出身であった。

親類に居た官僚の縁故採用枠で地方役人に就いていた。


欧陽修は後に梅尭臣を『詩老』と評したが、どうも梅尭臣の才に羨慕の念を持っていたらしい。

後に、陸游は『文の欧陽修、書の蔡襄、詩の梅尭臣』と評した。

梅尭臣は北宋三蘇の「蘇洵(蘇軾の父)、蘇軾、蘇轍」と並べて、四蘇目として「蘇梅」とも称される。

この梅尭臣の詩の卑近純朴ぶり、日本では絢爛な感のある唐詩の方に人気があるが、中華ではこのような宋詩のファンも多い。

いわゆる宋詩の始祖は、梅尭臣である。


梅尭臣の序

「林和靖先生詩集 序(梅尭臣)」


天聖中聞銭塘西湖之上有林君嶄有声 

若高峰瀑泉望之可愛即之愈清 

之甘潔而不厭也是時余因適会滑稽 

還訪於雪中其談道孔孟也其語近世之文 

韓李也其順物玩情為之詩則平澹邃美 

詠之令人忘百事也其辞主乎静正不主乎刺譏 

然後知其趣向博遠寄適於詩爾 

君在咸平景徳間已大有聞会朝廷修封禅 

未及詔聘故終老而不得施用於時凡貴人鉅公 

一来語合慕仰低回不忍去君既老 

不欲強起之乃令長吏歳時労問及其殆没也 

謚曰和靖先生先生少時多病不娶無子 

諸孫大言(注:林大年のこと)能綴拾所為詩請余為序 

先生諱逋字君復年六十二其詩時人貴重 

甚於宝玉先生未嘗自貴也就輒棄之 

故所存者百無一二焉於戯惜哉 

皇祐五年六月十三日太常博士梅堯臣撰 



この序文が後に、1000年に亘る論争を引き起こす。






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