【メモ】梅妻鶴子の根拠(梅と鶴の末裔)
梅尭臣の序文の日付は皇祐5年6月30日になっています。
つまり 1053年、しかももう太常博士。
林逋の死去は 1028年です。
だから史実では、林和靖先生詩集が編纂されたのは死後25年後。
実際に編纂したのは、林大年であったようです。
梅尭臣が一念発起して云々の件は概ね史実ですが、それが林和靖のせいだったら面白いなと思って、その辺りは創作です。
このあたり、時期的になんか辻褄が合わなくなっています。
本文中の林和靖の3首の詩は有名な物で、林和靖を語れば必ず出て来ます。
山園小梅は2首あって、(其の1)が林和靖の代表作。
ただ本編中の解釈は、素人が適当に書いているだけです。
日本語ページでもいっぱい扱われてますから、正しい解釈はそちらをご覧下さい。
通常は、梅の枝影が小川に映っている様子とされています。
そんな内容の詩が、別にもあるわけです。
そして長相思(惜別)、これは中華での概ね正しい解釈を使用しています。
これは歌謡につける詞で、長相思と題する詞は他の詩作家もいっぱい作っていますが、これこそが中華が林和靖に “萌えるツボ” のポイント1。
梅妻鶴子の林和靖には「破れたロマンス」があった。
それは、どのような物であったのか?
その話は大昔に創作されて林和靖伝説、というか童話のような感じで今に伝わっています。
その物凄い美少女はお金持ちのお嬢様
林和靖と恋仲になったが、林和靖は貧乏たれ
ふたりは別離を余儀なくされて
傷心の林和靖は旅にでる
てな内容で、そのお金持ちのお嬢さんの名が “梅さん” だったりするわけです。
ただ、2人が出逢ったのを西湖の湖畔としてる点が、杭州人のこだわり。
これが、銭塘江のポロロッカを見物していて・・・だったら絵にならない。
日本では「林和靖は鶴と鹿を飼っていた」ことになったのも、そんな童話が根拠だったのかな、とも思います。
「2人が出逢ったのを西湖の湖畔」これは、そんな童話が成立した当時には既に、「林逋の故郷は杭州であった」と認識されていたことを意味します。
この、「林逋の故郷は何処であったのか?」が、中華が林和靖に “萌えるツボ” のポイント2 であったりします。
「林逋は故郷の杭州に帰って来て孤山に棲んだ」と云われていただけで、実はその確証などなかったのでした。
梅尭臣の序 |
読んだ詩詞は全て棄ててしまっていた林逋でしたが、実は300首弱が残っていて、林和靖先生詩集は編纂され、梅尭臣は序を書きました。
この、梅尭臣の序文:
「謚曰和靖先生先生少時多病不娶無子」
もうひとつ、宋史・林逋伝:
「逋不娶、無子。」
この2つが「林和靖には妻も子も無い」=「梅妻鶴子」の大きな根拠となります。
梅尭臣の序文で梅妻鶴子伝説が確定した林和靖ですが、
このあと、林和靖の子孫を騙る者が登場します。
それは果たして本物なのか?
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