2018-02-13

【メモ】林和靖と隠士文化(梅と鶴の末裔)

 【メモ】林和靖と隠士文化(梅と鶴の末裔) 



林和靖(りんなせい)は、日本ではどう有名だったのか?

中国語IMEで『Lin Bu』[変換]したら一発で「林逋」になります。


日本語だって Windows10 になってからは出るようになりました。

『RinPo』[変換]『林逋』

『RinnNaSei』[変換]『林和靖』。

それなりに有名人のはずですが、でも、 図書館で訊いてもネット漁っても碌な話しも出てこない。


 梅白し 昨日ふや鶴を 盗まれし 


松尾芭蕉が京都で詠んだ句、「梅と鶴」、これだけで「あー、林和靖だ」と通じてしまう。

日本人なら、梅ときたら菅原道真ですが。

奥の細道、


 「松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭 西湖を恥ず」 

 「象潟(きさかた)や 雨に西施が ねぶの花」 


松尾芭蕉の時代から文人墨客さんにとって、杭州は憧れの地。

その理由は林和靖が西湖の孤山に隠棲したから、なのでしょう。

だって芭蕉は西湖を見た事はないでしょうし。


西施は越国の伝説の美女ですが、杭州西湖の命名の由来に「西施説」があります。

「欲把西湖比西子」と詠んだのは蘇東坡ですが、『西子(シーツ)西施のことで、また西湖のことを『西子(シーツ)と云います。

西施  西子  杭州西湖 ∈ 林和靖 、芭蕉はそこまで意識してた、のでしょう。

お話しの展開上、まず林和靖についての解説を入れたかったのですが、なんか丸々書くことになっちゃいました。


林和靖とは何者か?

「浮世離れした隠逸詩人」、それで正解ですが、それの何が凄いのかそこの説明が不鮮明。

日本の文人墨客にとって、林和靖はある種のブランドに過ぎませんでした。

当時、何か資料はと、姫路の城内図書館で書肆さんに訊いてみました。


「林和靖の伝記みたいの、ないですか?」


娘としばらく、かいけつゾロリなんぞ見ながら待ってたら、


「林和靖って林逋のことですか?

 これしか、ないんですよ」


と差し出されたのは、漢詩の人物辞典みたいのでした。

その場でさっと目を通して、目が点になっちゃいました。

曰く、『林逋は西湖の孤山で、鶴と鹿を飼っていた』 


え、・・・、鶴と鹿? 


やめてよ、鹿なんて飼ってないよ!

鶴と鹿なら南極老人、と思ったら、なるほどあった。


 呦呦(所養鹿名) 

 深林摵摵分行响,浅葑茸茸叠浪痕

 春雪满山人起晚,数声低叫唤篱门


面倒なので簡体字のままですが、ついでに鶴の詩。

 鸣皋(所養鶴名) 

 皋禽名祇有前闻,孤引圆吭夜正分

 一唳便惊寥泬破,亦无閒意到青云


鶴と鹿には、名前が付いてた。

おまけで猫の詩も、鶴のとなりにありました。

 猫儿 

 纤钩时得小溪鱼,饱卧花阴兴有馀

 自是鼠嫌贫不到,莫惭尸素在吾庐


猫のは面白いのでざっくり、

 小川で魚が掛ったか、たっぷり猫食い花陰でゴロ寝。

 ウチは貧乏ネズミも来ない、俺んちで無駄飯食ってんじゃねー。 


うん、猫も飼ってたのね。

うん、1000年前も、猫は『ぬこ』だったのね。

なるほど鹿もあったけど、中華側の資料でわざわざ猫や鹿を飼ってたなんて記述は見たことない。

なんで、日本では「鶴と鹿」になったんだろ?


やっぱり、たぶん、自称・林和靖の子孫の林淨因が奈良に居たから・・・


林和靖図という、湖辺の梅林で林和靖が鶴を見てる、そんな構図の日本画の題材があります。

このお話しを書いたのはたしか2011年でしたが、当時、西宮(にしのみや)「ひなや福寿堂」さんという古物商のかたの記事がありました。

ご商売用の記事なので今はもう消えてますが、当時は了解を頂いてリンクを貼っていました。

以下はそのコピペです。

こちらの方がよほどに林和靖のステータスを理解し易い。


ひなや福寿堂さんの林和靖図の解説 」 


林和靖の図や、寒山拾得や、唐渡天神の図とかは、どこのお茶人さんの家へお伺いしても、よく掛かっている掛物でしたが、そういえば、どうも最近はなんとなく見かけなくなりました。

昭和50年ころ、 

大和郡山のあるお宅へ掛軸をお納めにお伺いしましたら、丁度、この林和靖の図を掛けておられました。

作者は 狩野探幽でした。

その家のご主人が、こんなことを話されました。


「林和靖はな、梅と鶴が好きやったんや

 それで庭に梅の木を植えて、鶴を飼うとったんや

 そやから、林和靖の絵はかならず、梅と鶴をかいたるんや

 、、、、

 三井さんも、鶴飼うてはったんやで

 金持ちの数寄者は、たいがい庭に梅の木 植えて、鶴飼うてるんや

 林和靖の、真似しとるんや」


私が 30才頃のことです。

(失礼ながらスペース改行等の校正を入れました)


日本における林和靖とは、そういう存在でした。



*** 林和靖とは何か? *** 


林和靖とは、『隠士』です。

北宋3代目皇帝の宋真宗は、林逋に『処士』と贈号しました。

『処士』とは、「仕官をしない在野の士」という意味です。


大隠隠于市、という成語があります。

隠士だから深山に隠れ棲んでいるとは限らない。

心を自在に山野にでも天空にでも跳ばせるなら、深山に住む必要はない。

本物の隠士ならむしろ、生活利便な街中に潜んでいるはずだ。

隠士文化、という呼称も少し変ですが、ただ隠士を土壌として育まれた文化や歴史というものは、やはりある。

隠士は、晩年山に引き篭もった塚原卜伝や伊東一刀斎のような隠者とは違います。


くれぐれも、林和靖を『隠者』扱いしてはいけません。

そんなことしたら、蘇東坡が怒って、トンポーロウを食べれなくなります。


代表的な隠士といえば酒好きの代表選手でもある田園詩人の陶淵明。

なにしろその酒好きぶりと来たら、日本の古典落語でも酒を呑む。

この陶淵明は、なにしろ仕事をしなかった。

やっとこさ職に就いてもスグに辞めてしまいます。

朝廷からのお呼びも頻りにかかるのですが、全然応じない。

そして晩年は、一切働かなくなった。


つまり、完全にニート、です。

隠士の第1条件として、まずニートでなければなりません。


林和靖もまた、仕官も仕事もしませんでした。

梅妻鶴子の伝説「妻も子も持たなかった」は、その延長線上にあります。

「孤山に棲んで20年、一度も杭州城市に足を踏み入れなかった」も、そうです。


林和靖の、一切のしがらみを断ち切った生き方。

それ故に詠める、純粋な詩。


ものの本に拠れば、大学のセンセーの解釈は ──  

 曰く、林逋は世に出ようと諸国遍歴したが失敗した?

 曰く、だから故郷の杭州に帰って孤山に隠棲した?

 曰く、林逋は遍歴中に病を得たから妻帯しなかった?

── 日本人の思考回路。

陶淵明の酒好きも鬱屈してたからなんて御説でした。

これ、もし林逋や陶淵明が現代に生きてても言えるんでしょうか?


残念ながら大間違い、林逋は確信犯でした。

なにしろ「深居興」の詩で本人がそう宣言しているし、科挙に応試した形跡が全然ないし。

世に出ようとしたなら詠んだ詩は捨てないし、故郷は杭州じゃないし、林逋ほどの名声があれば病を得たら逆に妻帯して家庭を持ったはずです。

林逋は故意にそのような生涯を送り、その価値を知ればこそ、宋仁宗は『和靖先生』と、諡(おくりな)しました。


林和靖自身は、なんにもしていません。

仕事もせずに詩を詠んでいただけの変人です。


現存する詩詞も約300首だけ。

李白で約1000首、楊万里 約4000首、陸游 約9000首、林和靖は非常に少ない。

だって、林和靖は詠んだ詩を、自分で棄てちゃってましたから。

現存する林和靖直筆の墨蹟はたった3件、それも、誰かが泥棒してきたものなのだそうです。

もちろん故宮博物館所蔵でおいそれとお目にかかれない、国外貸出し禁止です。


林逋行書-冒頭は蘇東坡で乾隆帝のコメント付きの逸品

詩なり画なり書いたら、落款おしてサインして、

その紙片がいろんな人の手を渡っていって、

その人が気に入ったら、またハンコ押してサインして、時にはコメント付けたり、

Twitterの「イイネ」とおんなじ。

そうやって詩作家や画家は名前を売っていった。

日付なんかも入りますから、中華の文人の足跡はわりと辿り易い。


林和靖はそれをしなかった。

名前を売る気は端から微塵も無かったからです。

だから放浪中の足跡もよくわからない。

ただ、長江と淮河のあたりをうろうろしたのだろう、その程度の推定だけです。


なのに交友範囲は広く、林和靖の庵に出入りしていた人物や、林和靖に影響を受けた人物は限り無い。

「梅と鶴の末裔」の登場人物だけでも、欧陽修梅尭臣王安石范仲淹、実際にはもっと多く、が林和靖の庵に出入りして影響を受けた。

北宋を語ったら必ず出て来る名前が全部揃ってる。

時代は下っても、蘇軾蘇轍姜白石、その他大勢が林和靖の影響を受け、多くは林和靖へのオマージュのような詩を残しています。

王安石の「梅花」草と木の間にで紹介しました。

姜白石の「疎影」「暗香」、ここまでモロパクリでも全然恥ずかしくない。


なんにもしていないのに、当世にも後世にまでも大きな影響を及ぼした。

それが、隠士・林和靖の凄いところです。


隠士は、仕事をしてはいけません。

職を持たず、従ってバイアス(偏向性)を持たない状況でなければならないのです。


 偏向を受けない、真正な学究の輩(やから) 


それが、隠士です。



蘇東坡の書林和靖詩後

蘇東坡は年代的に、林和靖に会ったことはありません。

しかし、以下のような詩を残しました。

往時の、蘇東坡の林和靖への憧憬の思いをよく現しています。


  書林逋詩后


呉儂生長湖山曲、呼吸湖光飲山

不論世外隠君子、児販婦皆氷玉。

先生可是絶俗人、神清骨冷無由俗。

我不識君曾夢見、瞳子了然光可燭。

遺篇妙字処処有、歩繞西湖看不足。

詩如東野不言寒、書似西台差少肉。

平生高節巳難継、将死微言猶可録。

自言不作封禅書、更肯悲吟白頭曲。

(逋臨終詩云:茂陵異日求遺草、猶喜初無封禅書。)

我笑呉人不好事、好作祠堂傍修竹。

不然配食水仙王、一盞寒泉薦秋菊。


呉の人々は湖山の麓に生まれ、湖光と山翠で育つのですね

超絶世外の大隠士は、下僕や商家の婦人も氷玉にしてしまう

先生は世俗を絶ったんじゃない、神域の資質で骨から脱俗していた

余人には知れぬ貴方の世界、燭光の如く人を照らす貴方の瞳

詩篇や墨蹟は処々に散っています、西湖を巡るだけじゃ足りませんね

詩は寒苦のない孟郊の格調、書は李建中に似て痩硬剛拙

貴方の平生高節は継ぎ難い、死に際の微言は忘れない

封禅書は作らないと言ってるくせに、白頭曲は悲吟するんですね

呉の人々もつまらぬ事を、孤山の竹林に祠堂を祀るなど

西湖の主人は水仙王のもとで祀るべきなのに

さあ、一杯の泉水と、秋の菊を捧げますよ


(注釈) 

東野 : 唐代の詩人の孟郊

西台 : 宋代の書法家の李建中

微言 : 死に際の言辞

白頭曲: 封禅書を書いた司馬相如の妻、卓文君の詞の白頭吟

水仙王: 地神の銭塘龍君(洞庭龍君の弟で銭塘江の海嘯の原因)西湖の畔に廟が有ったらしいが伍子胥とケンカして負けた


『自言不作封禅書、更肯悲吟白頭曲』

卓文君は中華4大才女のひとりで、数々の文章を残しています。

白頭吟は、夫の司馬相如の不実に対して、妻の卓文君が詠んだ詞です。

ちょっと綺麗なので、せっかくだからYoutubeのリンク。


 [白頭吟 ] 官方戲劇版Music Video - 戲劇「風中奇緣」插曲


林和靖は死に際にまで、司馬相如の封禅書を否定していました。

「なのに、卓文君の白頭曲は悲吟するんですね」、そう蘇東坡は述べています。



現代日本では、どうでしょう?

ニートを叩くような風潮はあるようですが。

しかし、ニート層から隠士が出現して、閉塞した日本の突破口となる。

そんな可能性は意外と高いかもしれません。

時間が有るというのは、存外と大きな財産です。


林和靖の情報があまりに少なかったものですから、本編では断片的な情報を使って、梅尭臣(ばいぎょうしん)に解説をして貰いました。

梅尭臣は「宋詩の始祖」と呼ばれる人物です。

林逋の詩の収集と編纂は、実際には林大年の仕事であったようです。

梅尭臣と林大年は交友関係にありましたから普通に考えて同世代、実際には林宥が一番年上だったはずです。






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