雪が降り頻るなか訪れた林逋の弟子達、梅尭臣が語る梅妻鶴子の伝説
梅と鶴の末裔(1)梅妻鶴子
(杭州)
雪が頻りに降り積もる中、やって来たのは林逋(りんぽ)の弟子たちだった。
軒先で傘や肩に積もった雪を掃(はら)い落とす。
脳裡を掠める古い記憶。
ふたりは渋紙に包んだ紙の束を大切そうに取り出し、
「先生にお願いが有り、やって参りました」
梅尭臣(ばいぎょうしん)は差し出された紙の束に目を落とした。
それは、林逋が遺した詩だった。
「・・・よくこれだけ、集めましたね」
「はい、あちこちでお願いしてやっと200首ほど」
「そうですか、では私も集めてみましょう
私自身の分も含めて、100首ほどは揃うでしょう」
林逋は自身で詩を残そうとはしなかった。
なにしろ詠んだ詩を片端から棄ててしまう。
もっとも、彼は一度詠んだ詩を忘れることはなかった。
わざわざ残す必要は感じなかったかもしれない。
「林逋はどのように?」
「はい、故人の意思通りに致しました」
ならば、孤山に葬られたのか。
林逋は生前から、自分の墓を庵の傍に用意していた。
「杭州太守の李諮が、ずっと泣き通しでした
林逋の傍を一向に離れようとせず、7日間も喪に服しっぱなしで」
「李諮さんは、若い頃からの林逋の友人だったそうですから」
杭州城市で若い頃の林逋を知る者は李諮さんぐらいのものですよ。
これは虚白上人から聞いた話しですが、梅尭臣は語り始めた。
林逋が弧山に隠棲を始めてほどなく、噂を聞きつけた李諮は弧山を訪れた。
李諮は詰るように、林逋に言った。
「林逋、お前こんな近くに居たのか?
だったらなんで顔ぐらい出さないんだよ
蘇州で林逋を見た、揚州に居た、曹州だ、噂ばかり届くが全然会えない
お前が故郷を旅立ってから、もう、20年ぶりじゃないのか?」
「あはは、21年ぶりですね」
「でもちょうどいいや、皇帝はいま人材を募っている
お前、杭州城に来て、俺を手助けしてくれよ」
「駄目ですよ、わたしでは国家大事に向きません」
「だろうな、その気があったら、こんな西湖の小島に居るはずはないか」
李諮も無理強いはしなかった。
なんのために林逋が弧山での隠棲をはじめたのか、それが分かっていたからだ。
おそらく、林逋の存在を皇帝が知ることになった理由のひとつは、李諮だろう。
その翌年、今度は「林逋には妻子がある」、李諮はそんな噂を聞きつけた。
「お前、女房や子供があるんなら、なんで杭州城に住まないんだ
こんな小島では、お前はともかく、女房や子供が不便じゃないか
で、その女房とやらは、何処に居るんだ?」
「あはは李諮、お前さんも会ってるじゃないか、ほらそこに」
そこに在るのは、梅の木と、二羽の鶴だけだった。
林逋に身を固めさせようと世話を焼く者があり、それを五月蠅がった林逋が「私には妻も子もある」と返したのだった。
それ以来、林逋は、梅の木が妻で鶴は子、そういう設定が気に入ったそうだ。
それを聞いた李諮は、呆然とつぶやいた。
「おまえ、やっぱりか、本気なのか?」
「わたしは、本気ですよ」
その頃、本当に林逋のことが解かっていたのは、李諮さんだけだったでしょう。
梅尭臣が林逋と李諮の話しを語り終えた。
「李諮が泣きながら喪に服しているところへ、故郷から人が駆けつけましてね
林彰と林彬(リンピン)と、つまり私どもの祖父筋の親類ですが」
「ああ、林逋の叔父筋の方ですね」
「祖父筋たちは林逋を故里へ連れ帰ろうとするし
李諮は李諮で、林逋を帰らせたくないし
ずいぶんと揉めましてね」
「それで結局、孤山に?」
「はい、林逋は生前から自分の墓を庵の傍に用意していた
これは、故人の意志なのだと、李諮が半ば強引に」
「そうですか、私もそれで好かったと思います
やはり李諮さんは、林逋のことを好く解っておられます」
「故里からは、一族の者が毎年交代で孤山に詣でて林逋を祀る
そういうことで、決まりました」
梅尭臣が、ふと、思い出したように訊ねた。
「ではあの鶴たちは、まさか引き取られたのですか?」
それが、鶴は ─
林逋は2羽の鶴を飼っていた。
よく馴れていて、林逋とは何か通じるものがあったようだ。
その様子は林逋を訪れる文人墨客を羨ましがらせたものだ。
呼べば擦り寄ってくる鶴、そんな鶴は後にも先にも見た事がない。
初めてそれを見た者は、たいてい仰天する。
そして鶴を褒められると、林逋はストレートに嬉しがる。
『だって、私の可愛い子供達だから』
ある日のこと、清明節の頃に林逋を訪ねて孤山に出向いたのだが、林逋はあいにく留守だった。
庵の童子が「少しお待ちくださいね」、などと言って鶴に何か語りかける。
二羽の鶴はそろって飛び立ち孤山の上空をひと巡り、南の方に飛び去り小さくなっていく鶴の影。
麗らかな日和で、西湖には幾多の小舟が浮んでいる。
その中を、こちらに向かって漕いで来る小舟があった。
前後を二羽の鶴が付き従っている。
小舟を漕いでいたのは、林逋だった。
『来客があったらね
この子達に呼びに来て貰うことにしたんだよ
翼があるから、うってつけだろ』
そんな凄いような、変なことを軽く言われても困る。
「あの時は、返答に困りました」
「おかげで、変な噂が流れるようになってしまって」
「そうでしたね、でもあれはグッドアイデアでした
あの状況では林逋も、対応しきれなかったでしょうから」
曰く、林逋の代わりに鶴が買い物に来た
曰く、林逋の作った梅の実を鶴が売りに来た
杭州城下に、そんな変な噂が流れだしたことがあった。
あの二羽の鶴たちは、
ある朝、林逋の墓の前で死んでいるのが発見されました
その前夜、2羽の鶴は揃ってひと声啼いたそうです
林逋の死後、餌を食べなくなってしまったのです
聞いた者がね、有ったのですよ、その声を
悲痛な声で叫ぶ、林逋の2羽の鶴たち
墓の前で啼く鶴に、酷く胸が痛んだ
「上天竺寺の若い僧が、そう嘆いておりました
元浄という近ごろ足戒したばかりの、茲雲法師のお弟子さんです」
林逋が可愛がっていたあの二羽の鶴たちが、林逋の墓の前で寄り添って死んだ。
妙に動物に懐かれ易い性質(たち)の人ではあった、そういうことも有るかもしれない。
もうすぐ梅の花が咲き綻ぶ季節だ。
林逋が孤山で植樹し続けた梅の木、それが開花する時節になったら一度、孤山を訪ねねばなるまい。
「それで、林逋の詩詞を収集して、どうなさるのですか?」
「はい、先生にはその編纂をして頂きたいのです」
「私が、ですか?」
片端から詠んだ詩を棄てていく林逋。
それを惜しんだ者が貰い受けたり、時には偸(ぬす)んで帰ったり。
豪の者なら、記憶して帰る。
その散逸ぶりは杭州城下に留まるまい、現に河南の洛陽なんかで自分が林逋の詩を持っている。
それをこれだけ揃えるのは大変であったろう。
おそらくこの二人は、林逋が詠んだ詩詞を採集しながら杭州からここまで来たのだ。
「でも頼めば皆、快く譲ってくれたり、筆写させてくれたりしたのですよ」
それにしても、これを編纂するのは故人の意思に沿うのだろうか。
もっとも、自分にしても既にその気になっているのだが。
「先生が編纂をなされば、吾翁も文句は言わぬでしょう
孤山時代の林逋を本当に知るのは、やはり先生でありましょう」
「吾翁(我が父)と、・・・おっしゃるのですか?」
少しばかり聞き咎めて、聞き返す。
林逋は結局、妻帯して所帯を持つことはなかった。
そして、庶子も嫡出子もない。
時に病気がちになる林逋は、それ故に妻帯しないのだと言っていた。
林逋を吾翁と呼んでも好いのは、あの鶴たちだけだ。
林宥(りんゆう)は林逋の兄の子で、そして林逋の弟子だ。
林大年はその林宥の子で、やはり林逋の教えを受けた者だ。
このふたりは林逋の弟子であり、そして諸孫(本家の後裔)なのだ。
林逋は彼らを教育し、科挙を経てきっちり進士に仕立てあげ、そして出仕させた。
朝廷は林逋自身に出仕を要請したのだ。
だが林逋は自身では出仕せず、替わりに弟子を出仕させ、それを彼らはちゃんと勤めている。
林逋自身は、仕事もしなかった。
「失礼致しました、しかし、私どもだけは林逋を吾翁と呼んでも許されるかと」
「許されはしないでしょう、他人に語ることは
心中にそんな想いが有るのは解りますが」
許されはしない、赦されるのかもしれない。
生前の林逋ならやはりそれは諌めるだろう。
死後の林逋なら、この甥っ子どもと二羽の鶴を並べて、
『あはは、私の可愛い子供たちだ』
そんなことを言いそうな気もする。
あの当時、皇帝の宋真宗が自身で林逋に開封(カイフォン)への出仕を要請した。
おそらくそれは李諮の差し金だったろう、しかし林逋は応じようとはしなかった。
そのため皇帝は、杭州城の地方官吏に林逋の塩梅に気を配るように申し渡したそうだ。
それからだった、やたらと地方役人が孤山の林逋を訪問するようになったのは。
発端は皇帝の指図ではあったろうが、皆が皆、政治談議などと口実をつけて林逋と会いたがるようになった。
林逋は米とか塩とか衣とか、そんなものしか受け取らず、庵の改修等は断っていた。
貧乏なくせに林逋の庵に就いていた童子も、あれもそういった筋の援助であったのだろう。
次いで、杭州城内の庶民までが林逋を訪うようになった。
孤山の主の存在はすっかり評判になっていた。
孤山に棲む林逋を援助しようとする者も、幾人もあったが、林逋はそれを嫌っていた。
林逋が孤山に植樹した梅の木は、360株ほどにもなる。
ある時、その梅の木に甕(かめ)がひとつづつ括り付けられたことがあった。
甕の中を覗いてみると、渋紙に包まれた銭が入っていた。
『私はね、女房に食べさせて貰っているんだよ』
林逋は梅の木を妻だと言い放つ。
それぞれの木から採れる梅の実を売って、得た銭を甕に入れておく。
そして一日の生活費を甕1個の銭で賄う。
風雅というか、ユニークというべきか分からない事を始めたのだが、
すると梅の木の甕に、こっそり銭を投入して帰る者が大勢出てしまった。
お寺のお布施じゃあるまいし。
梅の木の甕はほどなく、姿を消した。
林逋はそういうことを、酷く嫌った。
仲間内でよく語られる林逋の変なエピソード、思わず笑みをこぼす林逋の弟子達。
この二人も林逋のことが、好きでしようがなかったのだ。
「まったく、突然に妙なことを始めたものでした
それにしても、変な所で頑固なんですよね」
「あはは、それは違いますよ、あれはね
そう、あれは痩せ我慢というべきですよ」
このふたりには、解らないかもしれない。
自分も、若い頃はそう感じていた。
すると林逋がタイミング良く語ったのだ。
『これが本来の禅というものです』
そうだったのか、本来あるべき姿を追究し、見えぬ物が見えるようになる。
林逋はそれを、本来見える物を観る、とそう言う。
『ただ歩く、それだって禅なのですよ』
かつて、釈迦の弟子に掃除ばかりする者が居りました。
経も読まぬし座禅もしない、日がな一日、何十年も、ただひたすら掃除だけをした。
そうして、遂に悟ってしまった。
僧はよく、山門で掃除なんかをしていますね。
僧が歩く姿は、何か在家(出家しない者)のそれとは少し違いましょう。
あれはね、禅なのです。
その時、目の前がひとつ、開けたような気がした。
有象無象の来客が増えて、林逋は往生するようになってしまった。
それ以来、林逋は寺院を訪れて僧侶と歓談したり、西湖を周遊したり、付近の山にある道観に篭ってみたりと、外出することが多くなってしまった。
だから、あの二羽の鶴を伝達手段としていたのだ。
『本当に大事なお客さまかは、この子達が判断するからね』
そんな、いかな林逋の鶴といえど、人の判別をする訳もない。
あれはあの童子が判断して鶴を放していたのだ。
「あはは、ですよねえ」
笑い転げる林逋の弟子達。
そんな林逋に、前皇帝の宋真宗(北宋3代目)は『処士(在野の士)』と贈号した。
そして死後に、現皇帝の宋仁宗(北宋4代目)は『和靖先生』と、諡(おくりな)した。
「皇帝は国力を回復しようと人材を手広く集めていますから
さぞや惜しんだことでしょうね」
林逋の弟子達との歓談は尽きなかった。
そんな話をつらつらとして、林逋が遺した詩詞について一頻り相談した後、林逋の弟子達はまた旅立っていった。
雪の中を見送りながら、甦ってくる記憶。
林逋から贈られた詩、ひと文字残らず頭の中にある。
だが、書架から引き出してきて目にせずには居られなかった。
次のお話し:【実話系】梅と鶴の末裔(2)梅聖来訪
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