2018-02-21

【メモ】梅妻鶴子の根拠

 【メモ】梅妻鶴子の根拠(梅と鶴の末裔)  


梅尭臣の序文の日付は皇祐5年6月30日になっています。

つまり 1053年、しかももう太常博士。


林逋の死去は 1028年です。

だから史実では、林和靖先生詩集が編纂されたのは死後25年後。

実際に編纂したのは、林大年であったようです。


梅尭臣が一念発起して云々の件は概ね史実ですが、それが林和靖のせいだったら面白いなと思って、その辺りは創作です。

このあたり、時期的になんか辻褄が合わなくなっています。


本文中の林和靖の3首の詩は有名な物で、林和靖を語れば必ず出て来ます。

山園小梅は2首あって、(其の1)が林和靖の代表作。

ただ本編中の解釈は、素人が適当に書いているだけです。

日本語ページでもいっぱい扱われてますから、正しい解釈はそちらをご覧下さい。

通常は、梅の枝影が小川に映っている様子とされています。

そんな内容の詩が、別にもあるわけです。


そして長相思(惜別)、これは中華での概ね正しい解釈を使用しています。

これは歌謡につける詞で、長相思と題する詞は他の詩作家もいっぱい作っていますが、これこそが中華が林和靖に “萌えるツボ” のポイント1


梅妻鶴子の林和靖には「破れたロマンス」があった。

それは、どのような物であったのか?

その話は大昔に創作されて林和靖伝説、というか童話のような感じで今に伝わっています。


その物凄い美少女はお金持ちのお嬢様

林和靖と恋仲になったが、林和靖は貧乏たれ

ふたりは別離を余儀なくされて

傷心の林和靖は旅にでる


てな内容で、そのお金持ちのお嬢さんの名が  “梅さん” だったりするわけです。

ただ、2人が出逢ったのを西湖の湖畔としてる点が、杭州人のこだわり。

これが、銭塘江のポロロッカを見物していて・・・だったら絵にならない。

日本では「林和靖は鶴と鹿を飼っていた」ことになったのも、そんな童話が根拠だったのかな、とも思います。

「2人が出逢ったのを西湖の湖畔」これは、そんな童話が成立した当時には既に、「林逋の故郷は杭州であった」と認識されていたことを意味します。


この、「林逋の故郷は何処であったのか?」が、中華が林和靖に “萌えるツボ” のポイント2 であったりします。

「林逋は故郷の杭州に帰って来て孤山に棲んだ」と云われていただけで、実はその確証などなかったのでした。

梅尭臣の序

読んだ詩詞は全て棄ててしまっていた林逋でしたが、実は300首弱が残っていて、林和靖先生詩集は編纂され、梅尭臣は序を書きました。


この、梅尭臣の序文

「謚曰和靖先生先生少時多病不娶無子」


もうひとつ、宋史・林逋伝

「逋不娶、無子。」


この2つが「林和靖には妻も子も無い」「梅妻鶴子」の大きな根拠となります。


梅尭臣の序文で梅妻鶴子伝説が確定した林和靖ですが、

このあと、林和靖の子孫を騙る者が登場します。

それは果たして本物なのか?




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