2018-04-01

【メモ】海部元首相の金山寺味噌(白娘子)

 【メモ】海部元首相の金山寺味噌(白娘子) 


海部元首相

金山寺といえば、そう、金山寺味噌。

鎮江(ツェンチャン)の金山寺で修行したお坊さんが和歌山に持ち帰ったとも、その坊主は空海だったともいいます。

違いますけど。


とりあえず鎮江の金山寺には、実際に『金山寺醤』と称する金山寺味噌があります。

ウチの排骨酢豚も、鎮江香醋という黒酢を使っています。

で、日本人が鎮江を訪れたら、金山寺で味噌を舐めることになっている。


でも残念ながら、日本の金山寺味噌は法燈国師径山寺(チンシャンスー)から持ち帰ったもの。

法燈国師の足跡は、金山寺(チンシャンスー)には及んでいません。


長江と焦山

ところが、2010年の4月のことでした。


海部俊樹元首相が、総勢75名で鎮江にやって来ました。

午前中は焦山を訪れて、午後から金山を訪問します。

海部元首相は中部日本書道会会長も歴任した立派な書道家でもあられ、焦山ははずせません。

(おっと、更新が2013年で・・、まさか・・)



焦山碑林のイーフーミン

焦山には石刻や石碑がいっぱいあり、これを焦山碑林といいます。

この焦山碑林には、『鶴銘(イーフーミン)』という石碑、というか摩崖仏ならぬ摩崖書があるのです。


この摩崖書がまた伝奇的。


その昔(AD510年頃?)、ある書法家が、飼っていた鶴が死んだのを悼んで銘文を刻みました。

(イー)”は「埋葬」を意味します。

鶴を飼うのが往時の文人墨客のある種のステータスになったのは、この故事が発端かもしれません。

これを陸游蘇東坡をはじめ、歴代の高名な書法家がみんな訪れ、臨書したり自分でも石刻を残してみたりしました。


そのため焦山碑林には、古の文字の書体がほとんど全て揃っている。

それ故、この鶴銘を『大字之祖』ともいいます。


イーフーミン

ただ、その『ある書法家』が誰か、諸説紛々でわからない。

わからないけど、一応、その有力候補に、王義之(おうぎし)の名も挙がってます。

王義之も2羽の鶴を飼っていました。


昔は長距離を移動するのは船で大運河、鎮江はその拠点でした。

それは通りかかったら、「ちょっと寄って行って臨書して行くか」となったのでしょう。


鶴銘は永年風雪に晒されて、北宋の時代に剥がれて長江に落ちてしまいます。

南宋になってから、運河の河川工事の最中に、5片の石塊となって長江の川底で発見。

史書を調べて「これはあの伝説の鶴銘だ」ってんでビックリ。

ところが明代の朱元璋の時代に、また長江に落ちちゃった。


次は清代の康熙帝の時代、大規模な捜索が為されて長江の川底から浚ってきた石塊が1000個あまり。

丹念に照合と検証がなされて、鶴銘と思われるものが数個。

もう落ちないように寺で保全されるようになったのは、乾隆帝の時代になってからでした。

刻んである文字は、当初160文字弱だったはずが、今は半分ほどになっているそうです。

2010年にも「長江から鶴銘らしき石塊があがった」というニュースがありましたが、真偽はアレです。


鶴銘は誰が作ったかはっきりしないけど、一応、王義之かもしれないという代物。


海部元首相は興味深げに観察し、そこに掲げてあったひとつの書に目を奪われました。


 天 上 大 風  


こ、これは、・・・「天上大風」といえば・・・良寛さんじゃないか!

良寛さんが子供にせがまれて、凧に書いたのが「天上大風」

それが、なぜか、ここに有る。


職員さんが解説をします。

(元ネタの新聞記事からは、発言したのは中国側の職員さんか日本側かは分かりませんでした)


「これは江戸期の著名な書法家の良寛さんの書です

 良寛さんは、鶴銘を模写して名を成しました」


「おお、良寛さんの書をここで見るとは、また親しみを感じますね」


あらら、苦しいお返事。

「へー、なんで良寛さんが中国の鎮江にあんのよ?」、ってツッコんで貰ってよかったんですが。

ホントにそんなのいつも有るのか、海部元首相用に掲示したのか知りませんけど。


それはたしかに良寛さんは王義之を研究したし、鶴銘は王義之かもってことになってるけど、

「天上大風」には王義之の風格があるそうだけど、

 良寛さんが鶴銘で、ってのはどうなのよ?


1825年、大嵐のため峨眉山で橋が1つ落ちました。

橋の欄干だか橋桁だかは、江を流れ、長江を下り、日本海に出て、1826年、岩手県柏崎市の宮川の浜に流れ着きました。

当時、折れた橋杭の「峨眉山下橋」の文字を見て、良寛さんは萌えまくった、という話しでよければ、有るようです。

良寛さんは、行きたくて行きたくて、でも、鎖国だから。

現在の峨眉山には、良寛さんの詩碑があるそうです。


 題蛾眉山下橋杭(沙門良寛)


 不知落成何年代(去年ですよ良寛さん) 

 書法遒美且清新(きっと峨眉山のお坊さんの書ですね)

 分明我眉山下橋(峨と我を掛けて?、萌え萌えですね) 

 流寄日本宮川濱(見たのが良寛さんでよかったです) 



その折れた橋杭は今でも貞観園で保管されてるそうですが、もしロシアに流れ着いてたらゴミじゃん。

日本に流れ着いて、良寛さんが知ったから、『宝物』になったんです。


日本海側では、今でも、大陸からゴミがいっぱい流れ着きます。

現代では、バーゼル条約で変な廃棄物は越境禁止ですから、ゴミは全部、着払いで大陸に送り返してよいと思います。



 海部元首相は、午後から金山寺です。

金山寺には、『金山醤(チンシャンチャン)があります。

日本の金山寺味噌の発祥は、径山寺です。


元首相は、ひととおり寺を見学して、方丈の心澄和尚にお尋ねになりました。


西太后60歳記念の慈寿塔

「日本の金山寺味噌は、金山寺が発祥ですか?」


方丈の心澄和尚が、笑顔で応えます。


「金山醤是源自我們金山寺的,現在還在做」


─ 金山醤は私ども金山寺が発祥です

  今でもまだ、作っておりますよ


「おお、これで私は朋友たちに金山寺味噌の由来を語ることができます

 私の説を、金山寺の方丈が証明してくれたのですから」


え・・・あの、元首相...なんか、誤解してね


元首相は自分の書を、金山寺に寄贈したそうです。


うん、日本の黒歴史、いや是非とも大切に保管してくださいね。

言っとくけど、あいつら記録魔だから、本気で永遠に保管しちゃうよん


「鎮江のお酢は日本でも有名です

 ウチにも鎮江黒酢が有るんですよ

 鎮江黒酢を飲んでるから、ほら私はこんなに元気!」


そう言って、海部俊樹元首相は金山寺を去っていきました。


いや、あの、鎮江香醋は飲むものじゃなくて、料理に・・・。

それに、どうせだったら、他に聞くことが・・・。


法海禅師の正体とか、許仙はどうやって逃げたのとか、

雪舟のこととか、


あの涙でネズミを描いた雪舟は、留学して金山寺にもしばらく滞在しました。

鎮江では、雪舟は「禅と絵画を融合した傑物」として、芸術家筋では有名だそうです。

きっと金山寺には、雪舟の墨絵だったらあると思うんですが、どうなんでしょ?

1956年に鎮江の画家が描いた、雪舟の絵画がありました。


金山寺味噌をなめる雪舟

海部元首相、いつまでもお元気で。

縁があったら、ウチの排骨酢豚も食べてくださいね。




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