自分達だけが知る秘密の場所、杭州西湖へ
白娘子フォークロア(7)断橋相会
(白娘子)
許仙は蒼白な顔で、鎮江の街を駆けていた。
保和堂薬店へ、白娘子のもとへ、許仙は駆け続けた。
脱出するのに半月近くかかってしまった。
監禁されて、翌日から脱走を試みた。
壁面は到底、破れはしない。
床下から逃げ出そうとしたのだが結局、床板すら外せなかった。
剥れてしまった爪が2枚、それを見て冷笑を浮かべたあの和尚。
法海和尚、あれは一体何者なのだ?
小青と白娘子は?
次第に色濃くなる焦燥、不安がつのる。
脱出路は天井にあった。
10日ほど前にどういう訳か、天井裏からカニが落ちて来てそれに気付いた。
それからずっと機を伺っていた。
ここ数日、法海和尚は外出することが多いようだった。
そして、昨夜は遂に戻らなかったのだ。
半月もかかってしまった、保和堂薬店、中に駆け込んだ。
人の気配がない、ふたりとも姿を消していた。
小青、あの少し気の強い義妹。
白娘子、女房の腹には子供がある。
それが、ヘビだと?
それでも、ふたりは無事なのだ。
仮にヘビだとして、調伏されたなら、ならば、法海和尚の挙動は必ず違ったものになったはずだ。
手がかりは無かった、当然だ、自分も手紙や書置きを置いていくような真似はできない。
だが、ならば何処を探せばいいのか?
保和堂の看板を外して大事に仕舞い込んだ。
グズグズしてはいられない。
法海和尚が来る、必ず探しにやって来る。
法海和尚の外出、あれは、女房達を探しに出ていたのだ。
傷の手当をした。
身の回りの物、少量の薬剤、家に有る食料、僅かの銭、衣類や家財にまでは手が回らない。
大急ぎで纏めて保和堂を飛び出した。
再び此処に戻ることは有るのか、わからない。
古運河、小船に潜んで日暮れを待った。
自分達だけが知る共通の場所、杭州西湖へ。
日暮れ前に漕ぎ出した。
江南運河に出る。
杭州と北京を結ぶ京杭大運河、その長江以南が江南運河だ。
紀元前には開通していたと伝え聞く。
その起点の鎮江は即ち水運の要(かなめ)、だから鎮江を選んで薬店を開業した。
杭州までの約320km、漕ぎ通す決心は固めていた。
江南運河の流れは幸いほとんど南向きだ。
古運河 ─ 常州 |
常州を通過したのは真夜中だった。
そのまま、漆黒の中を通り過ぎる。
こんな夜更けに運航している船は全く無かった。
暗闇に舟を漕いでいると、つまらぬ事を考える。
女房は本当に蛇なのか?
あの和尚が言うように、もし、本当に蛇だったなら、その時は、
その時は、だったらどうだと言うのか?
わからない、その時は、どうすれば好いのか分からない。
金山寺の、尋常ではない法力、あの法海和尚の言うとおり調伏すべきなのかもしれないが、しかし、
しかし、無職の穀潰しが、白娘子と出逢ってからは、他人並みに生活を送ってきた。
それを、こんな、理不尽な、
一家離散、なにか、根本的に納得できないものが腹の裡に居座って、
おのれの無意識が、全力でそれを拒否している。
まさか、自分はほんとうに、白娘子や小青がヘビでも構わないと、思っているのか?
古運河 ─ 無錫 |
夜が明けて早朝、無錫(ウーシー)に着いた。
手も腕も大丈夫だ。
鉄製の薬船(薬材を磨る器具、薬研)を毎日使ってきた。
手の皮は分厚く腕力だけはやたら有る。
だが足はダメだった、踏ん張り過ぎて水脹れになっている。
破って水を抜き消毒、酷く痛むが眠気覚ましになるというものだ。
食料と水を仕入れて、再び漕ぎ出した。
昼前には蘇州に着いた。
少し眠ろうとしたのだが眠れない、神経がささくれ立っている。
漕ぎ出そうとしたら櫂(かい)が折れた。
足の速そうな小船を盗んで乗り換える。
ついでにもう1本、櫂も盗んでおいた。
水と食料をもう少し調達、それから再び漕ぎ出した。
古運河 ─ 蘇州 |
蘇州を漕ぎ出したのは、まだ昼前だったはずだ。
なのにすぐ夜になってしまった、そんな気がする。
気付いたら何も考えず、ただ舟を漕いでいた。
何時の間にか、櫂が取り替えてあった。
また、櫂が折れたのだろうか?
いつ取り替えたのか覚えていない。
塩を少し、舐めた。
手の皮が破れていた。
闇夜に漕ぐ舟は、本当に前に進んでいるのだろうか?
だが右舷の彼方に山影、星明りに沈んでいる。
山影は、次第に見覚えのある形になっていった。
早朝の杭州、江南運河を外れて舟を捨て、西湖へと走った。
右手の前方、断橋が見える。
杭州は真夏になっていた。
断橋の大柳、湖を吹き渡る夏の風に揺れる鮮やかな緑の枝垂れ。
以前のままだ、懐かしいとも帰って来たとも思わない。
帰って来たのではないのだろう、白娘子たちを探しにきたのだ。
水を飲み、そのまま気絶するように眠り込んだ。
目覚めた時には、もうすぐ夕暮れだった。
断橋から西湖を眺め渡す。
やはり、小青も白娘子も居なかった。
曇り空から雨が落ちてきた。
断橋の大柳、ほんの半月前まではケンカしながらも普通に忙しく暮らしていたのに。
無職の穀潰しが得た普通の暮らし、今はもう離散してしまった。
次は何処を探せばいいのだろう?
「老(ラオ)ー婆(ポ)ー呀(ヤ)ー、小青(シャオチン)ーー」、夕暮れの西湖に許仙の叫びが木霊した。
西湖の湖底、気を練る小青。
こんな湖でいくら気を練ったところで、あの法海和尚に勝てる気は全然しない。
白娘子は戻って以来ずっとトグロを巻いて、「あんた、ごめんなさい、あんた、ごめんなさい」。
そんなことを言っているが、無理は言えまい。
第一、彼女は子供を宿している。
白娘子が虚脱した顔つきで戻ってきた。
「どうだった、お姐さん」
「うん、まだみたい」
白娘子は時折、「あの人が来る」そう言っては断橋を覗きに行っていた。
もちろん許仙が断橋に来ている訳はない。
もしかしたらもう、あの法海和尚が言ったように、許仙は出家してしまったのかも知れない。
今朝がたは、「あの人が来た」そう言って見に行ったのだが、やはり許仙は居なかった。
昼間も見に行っていたが、許仙が居るはずはなかった。
「あ、声が、ほら小青、許仙の声が・・・」
そして夕刻になり、白娘子が今度は「声が聞こえた」と言い出した。
これに及んでさすがに心配になってきた、お姐さんのあとを追って湖面に上がった。
断橋の大柳の下、そこには許仙が居た。
落ち葉を拾って気を吹きかける。
小舟に変じて、お姐さんを乗せた。
雨の降る夕暮れの西湖。
断橋の大柳の下、何処にも動けずにいる許仙。
こちらに向かって来る小舟、なにか琴線に触れるもの。
髭まみれで手も足も満身創痍の許仙、すっかり痩せ細ってしまった白娘子。
くず折れる許仙、歩み寄りへたり込む白娘子。
ふたりは額を寄せ合って泣き始めた。
「あんた、・・・わたし、・・・ごめんなさい
わたしたち、本当は・・・」
許仙はゆっくりと顔をあげ、白娘子の瞳を見つめ、手をあげて、
指先で、白娘子の唇に触れた。
「俺たちは、夫婦、だよな?
俺はね、あんた等が無いと、ただの穀潰しなんだよ」
小青の胸を、何かが衝いた。
明らかに、自分の正体を白状しようとする白娘子を、許仙はとめた。
許仙は、こいつは、いったい何なのだ?
許仙はどうやって、あの法海和尚から逃れて戻ってきた?
白娘子には、なぜ許仙が戻ってきたと分かった?
このふたりは、いったい何なのだ?
言い知れぬ思いが、小青の胸に去来する。
こいつ、試してやろうか ──
小青は、術を解き、青蛇の姿にもどって、鎌首をもたげてみた。
許仙は白娘子の頭を掻き抱いたまま、目を向けて、
「なにやってんだ、小青?
でも、あんたらが無事で本当によかったよ
オレがヘタこいたばっかりに、すまなかった」
清波門 ─ 現在はもうない |
だから、このふたりはいったい何なんだ。
小青は何をどう解釈すれば好いのか分からないまま、許仙に声をかけた。
「さあさあ、逢えたんでしょうに、泣いてばっかり
お義兄さんもどーするのよ、逃げ先、考えてよね」
「うん、・・・清波門に行こう」
またまた、姉の家に転げ込んで居候だ。
それも今度は、一家丸ごと。
夕闇迫る西湖、雨の中を小舟で清波門に向かった。
次のお話し:白娘子フォークロア(8)金の鳳冠
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