2018-03-04

梅と鶴の末裔(9)梅の開く季

 始祖は林浄因命、ならば祖先は本当に林和靖なのか  

 梅と鶴の末裔(9)梅の開く季  

 (饅頭@京都)  


京都、建仁寺

両足院、京都の春の建仁寺。

年に一度の墓参は亡父に託されて母が出向いていた。


笠付きの立派な墓石と合塔、建仁寺の塔頭(たっちゅう)両足院には江戸時代の頃までの祖先の墓がある。

塩瀬の家の始祖は、林浄因命(りんじょういんのみこと)だと伝えられていた。

(塔頭:死去した高僧等を記念する塔や別院を寺内に設えたもの)


老舗の子供などというものは可哀そうなもので、両親は朝早くから夜更けまで休み無く立働く。

子供は構って貰えないばかりか、時に理不尽に怒鳴りつけられることもある。

長じてからは大人たちに混じってお手伝い、幼い頃から老舗の暖簾というものを厭う気持ちは強かった。


だからサラリーマンの家に嫁いだのだが、今も繁忙期には呼び出される。

東京の塩瀬総本家は亡父の意志を継いで、母が当主となっていた。

墓参に出向く母には、都合のつく限り付き合うようにしていた。

母とともに過ごす時間というのは、貴重なのだ。


すると時には、母もポツリと本音をもらす。


『本当はね、マンションでも建てて老後はゆっくりしたいの』


でもね、お父さんに託されたのだから、塩瀬の墓前で手を合わせたまま動かぬ母。

母は祖霊に何を語りかけているのか、祖霊は母に何か語りかけるのか。

塩瀬の家の者は幼い頃から禅をやる。

あたりをぶらついていると、祖霊が語りかけてきた。

両足院

 ─  ─  


脳裏にふと浮かんだ、『鹽(しお)の文字。

そこに在る古びて泥に塗れた石柱は草叢に埋もれ泥に塗れていた。

手で泥を擦り落す、すると碑銘が浮んだ。


 『 鹽 瀬 之 墓 』  


息を呑んだ、その後方にももう一基、よく見ると、草叢に埋もれた『鹽瀬之墓』が幾つも散在していた。

驚きつつも、墓を掃除し、花と線香を供えたのだが気に懸かる。

いったい誰の墓なのか、墓というものは、『人』なのだ。


その、一年後(1980年) ─  


病床に就いた母に、突然に塩瀬の暖簾を託された。

母は病院のベッドに臥したまま、夫の手を取り懇願をした。

そして夫は同意した、職を辞して、塩瀬の暖簾を一緒に守ると誓ってくれた。

この時、老舗の暖簾を厭う気持ちは瞬時に溶けた。



塩瀬総本家34代目当主となった川島英子氏は、京都の両足院に散在していた墓の改修に着手しました。

両足院に保管されていた過去帳と家系図、墓石の碑銘と併せて丹念に照合していきます。

家系図は単に名前を連ねただけのトーナメント表ではありませんでした。

過去帳には、誰がどのような人物であったのかが記録されていたのです。


林家は歴史上、幾多の文人や僧侶を輩出していた。

両足院の開祖は龍山徳見禅師だが、2代目と3代目は林家の者であった。

龍山徳見禅師を祈念する塔頭が両足院なので、実質上の初代は林家の者ということだ。

林家はその後も僧侶を輩出しており、さながら林家は両足院の一部の様な関係にあった。


塩瀬の歴代当主や当時の人々は確かに存在した。

そして今もそこに在る、両足院の住職が墓石を整理する川島英子氏に言葉をかけた。


「祖先の墓の改修をすることは大変に良いことです

 ただ、墓石はそのまま使って整理するだけにして下さい」


両足院その2

それは当然だった。

墓というものは、人なのだから。

墓石に彫られた碑銘は風化しており、読めないものも多い。

困難を極めながら墓を年代順に並べて整理していく、そんな川島英子氏に住職が言葉をかける。


「その無償の行為、それこそが禅の心の真髄なのです」


墓を整理し終えた川島英子氏は、これまで日の目を見なかった塩瀬の歴史を目にしました。

その後も、氏は古文書や文献の調査を続け、塩瀬の歴史を探って行きました。


東京の塩瀬総本家は、確かに林浄因に繋がる家系でした。

奈良から京都に分家した林家、その後、京都でも分家していて、1600年代に江戸に移り饅頭屋を構えた一族が有りました。

塩瀬総本家こそが、その一族の後裔だったのです。


そして川島英子氏には、ひとつの気懸かりが芽生えます。


林浄因は妻子を置いて、元に帰国してしまった。

残された妻子は綿々と饅頭屋を続けた。


ならば ─ 


 林浄因の霊は、ここにはないのか 

 林浄因の妻子は、日本に取り残されてしまったのか 

 妻子は林浄因と生き別れ、そしてそのまま  

 今も、その魂は林浄因と共にはないというのか  


林浄因のその後の足跡は知れない。

日本に取り残された林浄因の妻子の魂、そのままにしておいてはいけない。

川島英子氏はそんな思いに捉われ、悩んだ末に結論づけました。


両足院庭、部屋のなか写真不可だったの

その結論は、林浄因の碑の建立

その場所は、杭州西湖の孤山


墓がない、だから魂の依代(よりしろ)となる碑を建立する。

それは生きている者のために為されるものだが、林浄因碑の建立、それは亡き林浄因の妻子のために。



川島英子氏は林浄因碑建立の許可を得るため、中国大使館に出向いて談判をしました。

中国大使館の参事官は協力を約束し、杭州市との仲介をとります。

杭州市政府と交渉をするために、杭州入りの旅行準備を進める川島英子氏ですが、しかし、杭州には行かずに済んでしまいます。

なんと杭州市長の方が東京に来てしまったのでした。


折りしも8月6日、丁度、広島の平和記念式典に出席していた杭州市長が大使館に立ち寄ったのでした。

中国大使館が労をとり、川島英子氏は杭州市長と面談しました。

杭州市長も興味を示し協力を確約、その後、杭州市政府から指示が出ます。


「林浄因が実在した証拠を提出せよ」


中国側にしてみれば、林浄因などという人物の記録は何もありません。

まったく無名の、思い切りどこかの馬の骨なのです。


しかし林浄因の資料なら、既に大量に揃っていました。

川島英子氏は資料を取り纏め、翻訳を付けて発送、これで大丈夫あとは待つだけ。

そう考え安堵する川島英子氏、だが、杭州市政府からの回答は冷たいものだった。


 杭州市に於ける林浄因碑の建立は、不許可  


「林和靖に子孫は無い

 林浄因などという後裔の存在は有りえない

 貴殿の請願は売名行為である


杭州市政府の意外な回答にショックを受ける、川島英子氏。

氏は今度は、林和靖について調査を始めました。






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