2018-03-07

梅と鶴の末裔(11)苗裔は祖梅を拝し

 遠い歴史を隔て符合する家譜、梅妻鶴子の系譜  

 梅と鶴の末裔(11)苗裔は祖梅を拝し  

 (饅頭@寧波) 


黄賢村の梅鶴公園

日本饅頭の始祖は林逋(りんぽ)の後裔であった。

その後裔は未だ日本で饅頭を作り続けている。

ならばそれは、黄賢林氏の同族でもあるのだ。


黄賢村の梅鶴公園には全村民が集まり、熱狂的な騒ぎとなっていた。

遠来の稀客がやってくる。

昨年、その日本の後裔から書記の林孝良のもとへ、黄賢村訪問を希望する旨の連絡が入ったのだ。


塩瀬総本家が孤山に林浄因紀念碑を据えに来たその時、林孝良の一家も家譜を携えて孤山に出向いた。

そして塩瀬の一族と邂逅した。


林孝良が黄賢林氏の家譜を広げ、塩瀬総本家が塩瀬の系図を並べて置いた。

両者を照合したところ、それは符合したのであった。


「少し以前に、日本饅頭の起源が寧波であると報道されて物議をかもした」


林孝良が語る。


林浄因は1349年に日本の名僧の龍山徳見に伴って日本に渡り、奈良に居を定めて饅頭製作を業とした。

彼が作る饅頭は『奈良饅頭』と称せられ、唐式茶会の点心に供された。

龍山徳見が1358年に逝去、林浄因は翌年中国に帰国した。

残された林浄因の妻は家業として営々と饅頭店を続け、天皇から御書を戴くほどの日本一の饅頭店とした。

林神社

日本では、4月19日は饅頭節と定められている。

饅頭節には日本中から点心師が奈良に集まり、林浄因を祭祀する。


林浄因の子孫の林紹絆は中国に来て点心の修行をし、饅頭店はますます隆盛した。

林宗二という人は辞典を作り、日本で初めて出版した。

今なお近鉄奈良駅の近くにある漢国(かんごう)神社の境内には林神社という小さな社があり、林浄因は饅頭の神として祀られている。



1998年には、寧波の学者の楊古城が日本を訪問して林神社の饅頭碑を確認した。

現地の人々は、日本に饅頭の製作法を伝えた林浄因を記念するものだと語った。


林孝良が語る話に、村人たちも引き寄せられた。


孤山で塩瀬の一族と出会ったその時、

息子の林浩権も饅頭を8個もらった。

4個は食べて、残りの4個は持ち帰った。

だが、保管してそのまま食べ忘れてしまったんだ。

その饅頭には防腐剤とか添加剤は一切入ってない。

思い出したのは、2ヶ月後だった。

なのに残りの4個の饅頭は、まだ食べることができた。

驚異的な保鮮技術、きっと発酵技術に何か秘密があるに違いない。

(注:いやそれ発酵技術じゃないと思います。消費期限内に食べてください)


梅鶴公園に車が着いた。

ドアが開き、素色の和服を着た御婦人がゆっくりと降りてくる。

同行してきた子や孫達と塩瀬総本家の面々、84歳という高齢だがしっかりとしていた。

年若い頃の清秀さを残している、川島英子氏その人だ。


村で最長老の林仲安老人が出迎えた。


約1000年の時を隔て、祖先を一にする両一族は相間見えた。

時を隔てようと、場を隔てようと、いつか出会うべくして出会ってしまう。

そうした出来事、それは『 縁 』なのだ。

これこそが、祖先を拝することにより生じる千年の縁であった。


林氏の後裔たちが打ち揃い、東祠廟に出向き祖先に拝礼する。

長い時間、手を合わせて動かない塩瀬の一族、彼らは祖霊に何を語りかけるのか。

祖霊は彼らに何を語るのか。


川島英子氏一行が携えてきた、塩瀬饅頭、上面には紅く『林』の文字が刻まれていた。

林農家餐館の老板が用意した当地の米饅頭、川島英子氏はひと口食べて、


「なんと軟らかい!」


声をあげて職人の顔になり、原料を訊いてきた。

林孝良が答え、防腐技術について聞き返す。


川島英子氏の塩瀬の系図、林孝良の黄賢林氏の家譜。


対照し顔を並べて見比べる両者、海と時代を隔てた遠い地に在る符号する系図。

林浄因は確かに林和靖に繋がる家系であった、林和靖からは7代目にあたっていた。


黄賢村村誌編纂担当の鐘水軍の説明。


符合する家譜

家譜の赤い線が養子であることの標示です。

象山県の鶏鳴山と奉化市の黄賢村、林家村の家譜で確認が取れました。

林逋の父親は4人兄弟で、福建の長楽県に居ました。

4人は福建からやって来て、奉化市一帯に居を構えました。

1人は鶏鳴山、1人は林家村、あとの2人が黄賢村です。


 林銒(リンシン)   象山県石浦鎮の鶏鳴山 

 林釧(リンツァン)  寧波市寧海県の林家村 

 林鐶(リンファン)  奉化市(きゅう)村鎮の黄賢村 

 林釴(リンイー)   同じく黄賢村、林逋の父親 

 (注:黄賢林氏は林逋の兄の系統)


黄賢村全景

林逋の出身も黄賢村となります。

林逋には跡取りが有りません。

それで当時の習俗に照らして、甥が継嗣に充てられました。

そういうことは農村ではまま有るのです。

林浄因はその6代目、林和靖からは7代目です。



林和靖には確かに庶子も嫡出子もなかった。

梅妻鶴子の伝説は真実だった。

だが養子を据えていた、林和靖は本家から養子を迎えていた。

当時も子がない場合には、そういう慣習があったのだ。


1000年に亘る林氏の系図、当然に、幾つにも分派している。

黄賢村の村内で最も上位は、"士"姓の一族。

これが、林氏42代目

塩瀬は、林氏41代目(7代 + 34代 = 41代目)

一族の系統としては、塩瀬の一族が長にあたる。

そのため、村民総出で塩瀬の一行を出迎えることとなったのだった。


京都で祖先の墓に向き合って以来、この一連の出来事が連鎖して起こっていった。


黄賢村の放鶴亭

両足院でふと偶然に目にした、塩瀬の古い墓。

塩瀬の歴史を探り始めると、偶然に幾つもの情報が飛び込んできた。

杭州に飛ぼうとしたら、杭州市長の方が日本に来た。

普通なら数年がかりであろう林浄因碑建立も、2年目には出来てしまった。

そして出会うこととなった幾多の人々。


建前を取り払い、真摯に向き合うことで幾つもの素晴らしい出来事に出逢っていった。

そこには必ず、祖先の手助けが有ったはずなのだ。


川島英子氏は、同族の者に向けて語る。


林逋のような祖先が自分達の祖に有ることを誇りに思います。

どうか皆さん、祖先を大切にして下さい。

父母を敬い孝を尽くし、


彼女は説く。


「そうしてこそ80歳を過ぎようとも

 元気で喜びのある人生を送れるのです」



実のところ、林和靖が養子を据えた、そういう史料が無かったわけではない。


宋人伝記資料索引

 王時敏は上饒(じょうじょう)の人で林逋の弟子である

 林逋の死後に、王時敏は林逋の後裔を立てた

(注:江西省上饒市は安徽省・浙江省・福建省との境目に位置する)


記録魔の国民性、この史料は信を置くに足らずとされた。

というよりも、梅妻鶴子の伝説に不都合だから排除されたと考えるべきだろう。

果たして本当に養子が据えられたのは、林逋の死後であったのか?

林逋の家譜が検討されたた結果、林逋が継嗣を据えたのは生前であった、と現在のところ結論づけられている。


仮に継嗣を据えたのが死後であったとしたら、この場合は親子といえるのか?


その答えは「言える」だ。


婚姻は当事者の意志と社会の承認により成立する。

親子関係もまた然り。

当事者に意志があり社会が認知すれば、それは親子だ。

婚姻と親子は別物、妻がないから子は無い、などとは言えない。

特に日本は法律婚主義なので、実の親子でないのに法的親子とされたり、実の親子でも法的に親子でないとされるケースがよくある。

少なくとも日本人には、この親子関係の成立に文句をつける筋合いは無い。


おそらくその据えられた継嗣には、林逋の継承者としての意志はあっただろう。

歴史上、幾度となく「林逋の後裔である」と語る者が出現しているのだから。



中華の饅頭の始祖として、諸葛亮ではなく、林啓(リンチー)の名が伝わっている。

ただこの人物、どこの何者なのか詳細はなにも分からない。

残念ながら当然に、林浄因との関連も分からない。


おそらく別人であるはずだが、同姓同名の林啓という人物が清朝末期にあった。

この林啓は、1800年代後半に進士となったが、西太后に楯突いて杭州に左遷を喰らった。

そして浙江大学を始めとする幾つもの学校の設立に寄与し、経済と教育に尽力した偉人だが、この林啓もまた林和靖を崇拝していた。

当時、孤山の梅がすっかり枯れ果てているのを憂いた林啓は、自ら100株余の梅の樹を植樹した。

そして死後、故郷の福建と杭州とで何処に安葬するかが争われたが、結局、孤山の北麓に葬られている。


林洪・可山も林和靖との関連は、今のところ判明していない。

家譜が見付かっていないので、しばらくは家系を偽る瓜皮搭李皮のままとされた。

現在は(2017年)、確認は取れぬものの恐らくは林和靖の係累であったろうと推測されている。

林洪も林啓も、どちらも林和靖の父親と同じ福建省の出身であった。


中華のネット情報はこの出来事に併せて2011年頃から2年ほどかけて、林和靖の故郷は「杭州」から「奉化市黄賢村」に書き換えられていった。

辞源、辞海、中国文学大辞典等の、中華のポピュラーな辞典もまたその記載を書き改めていくこととなった。




川島英子氏の祖先探索行は、林和靖の故郷を特定し、梅妻鶴子伝説を実証するに至りました。


このお話しの資料を漁り始めたのは、2010年頃からでした。

その最中にも、梅妻鶴子伝説を考証したり、林和靖妻帯説を論評するページがどんどんと増えていきました。

そして林和靖の故郷が、当初は「杭州」だったのが、「杭州,一説には奉化市黄賢村」となってる。

次に閲覧した時には、「奉化市黄賢村,一説には杭州」と改められている。

そんな状況でした。

現在は、概ね何処のページも「奉化市黄賢村」となっています。


お話しを書きながら思ったのですが、

川島英子氏が中国大使館で談判した時点、或いは、

杭州市長と面談した時点から、秘かに林和靖の「梅妻鶴子伝説」の再考証が始まっていたのではないかと。

つまり、浙江省一帯の林氏の家譜が一斉に洗い出された。

そして、「どうやら林和靖には継嗣があったらしい」という事実は早い段階で確認されていたのではないでしょうか。



直感で評価⇒

0 件のコメント:

コメントを投稿