何を間違ったんだろう、皇帝だって悩みます
皇帝の憂鬱
(饅頭@点心皇帝)
前のお話し:【皇帝の御筆】(お茶)
宮城を抜け出した康煕皇帝 |
弘くんはお爺さまが大好きです。
お爺さまも聡明な弘くんが大好きでした。
でも弘くんのお父様は、お爺さまを恐れて近付こうとはしません。
弘くんは10歳になったばかりの頃、お爺さまと初めて会いました。
家庭の事情は少々複雑です。
大きなお屋敷の一室で初めて会って以来、お爺さまは弘くんが気に入ってしまい、何かと会いたがるようになりました。
いまではお爺さま自らが直接、弘くんに四書五経を教えています。
(Memo:初対面は紫禁城の雍和宮とも暢春園とも)
「お前が愛新覚羅の跡を継げ」
兄たちや父親を差し置いて、そんなことを言われても、弘くんも困ります。
そんな話しを誰かに聞かれたら、皇位継承だなんて、冗談抜きで弘くんの命にかかわります。
お爺さまは清朝4代目の康煕皇帝です。
父親が次代の雍正(ようせい)皇帝、弘くんが後の乾隆皇帝、愛新覚羅弘歴です。
ある午下がり、ひと仕事終えた康煕皇帝が弘くんのところへやってきました。
北京の胡同,後方は白塔寺 |
「弘くん、今日はちょっと宮城を抜け出して息抜き、
じゃなくって、市井(しせい)の視察に行ってみようか」
「はいお爺さま、哥(クー)も一緒に構いませんか?」
「また兆恵か、構わんよ
あいつもいずれは、お前の片腕になるんだろうさ」
康煕皇帝の康煕はふつう『こうき』と読みますが、『やすひろ』でもかまいません。
(注:構います)
兆恵将軍は乾隆皇帝の少し遠い親戚になるのですが、この頃はまだ必死で勉強中の若者です。
少年時代の乾隆皇帝は、この3歳年上の兆恵さんを実の兄以上に慕っていました。
康煕皇帝は弘くんたちを連れて、こっそりと阜成門から宮城を抜け出し、城下へと息抜きに出かけました。
といっても内九外七皇城四、なんていいますが内城の門が九つに外城の門が七つ、さらに外にもまた門がある。
という造りで、その宮城の内城を出ただけです。
阜成門から白塔寺にかけては、当時は繁華街でお店屋さんも多かったのでした。
現在(2017年)は阜成門はもうなく、古色蒼然な胡同(フートン)はかろうじて残っているようですが、取り壊しは時間の問題とのことです。
3人が大通りをぷらぷらと歩いてゆくと、蜜香居という酒館がありました。
人が溢れかえってたいそう繁盛していますが、2階ならゆっくりとお酒が飲めそうです。
早速あがって酒肴を注文、康煕皇帝は手酌でチビチビ始めました。
紫禁城の阜成門,現在はもう無い |
「面白い造りですね、お爺さま
この酒館は入り口は安手の点心屋さんなのに
階上は逆に、こんな雅(みやび)な造りになっています」
観察力がある、康煕皇帝が顔をほころばせます。
兆恵さんが弘くんに訊ねました。
「どうしてだと思う、弘くん
何か面白いものが見られるかも、ですね、皇帝」
「さあ、どうだろうな」
ほどなく、階上は諸侯貴族の類で満席となってきました。
素知らぬ顔で聞くともなしに様子を覗う康煕皇帝。
どの卓も料理がテンコ盛り、しかし箸があまり動きません。
酒をひと口呑んでは無駄話、持ち込んだ鳥カゴの小鳥で遊んだり、コオロギ賭博をしたり、
窓から大声で外の誰かを罵ってみたり、あまりお行儀がよくありません。
八旗らしきグループが自分の鳥カゴを指しながら、
「この百霊(パイリン)はな、20両もしたんだぜ」
「へん、オレの交嘴(チャオツイ)なんかな
空中に放り投げたコインをクチバシで受け止めるんだぜ
50両出されても手放せやしないね」
百霊(パイリン)、交嘴(チャオツイ)?
小鳥の名のようですが、馬鹿じゃないでしょうか。
八旗たちが去っていったあとの卓上には、料理が手つかずでほとんどそのまま残っています。
料理に手を付けないどころか、箸すら触っていない者もありました。
酒館の小僧さんがやってきて、肉類はトレーに、料理類はバケツにと分別して回収していきます。
そんな様子を、憂鬱そうに見つめる康煕皇帝。
康煕皇帝は4代目ですが、北京を清国の都とさだめたのは康煕皇帝の先代(1644年,順治帝の清定都北京)です。
なので北京が首都となってからは康煕皇帝はたったの2代目、父親が国固めに苦労していたのをよく知っています。
康煕皇帝自身も8歳で即位、14歳から執政、以来60年間も引き続き国固めに明け暮れてきました。
なのにそれが、たかだか50~60年でもうこのありさま。
満族の官僚にしろ八旗子弟にしろ、こうも豪奢な浪費が蔓延し、飲み食いするだけで切磋琢磨のカケラもないとは。
康煕皇帝はため息をひとつつき、訊ねました。
「何を失敗したんだろうなあ、ふたりはあれをどう思う?」
「はいお爺さま、これは民族の衰退、国家衰亡の予兆というべきでしょう」
兆恵さんも憤りながら意見を添えました。
「見掛けは安っぽいのに、上階は豪奢
あの手合いが遊び易いように、店の造りがこんな風になっているんですよ
怪しからん店も有ったものです」
弘くんたちの言葉に康煕皇帝はうなずきながら、
「それでもな、おまえらはな、
いずれあいつらを食わせていかねばならぬ
兆恵さんは将来、どうするつもりかな?」
「はい、わたしは文官ってガラではありません
武官を目指して、武挙に挑戦です」
(武挙:武則天が創設した武官の科挙。明清代に特に隆盛した)
「うん好いな、是非そうして、弘くんを支えてやってくれ
どうもワシの代では、西の方が固めきれそうにない
ジュンガルあたりの動向には、くれぐれも注意をしてな
それをやるのは、お前等の仕事だな
弘くんは、お母さまを大切にしろよ」
「はい、お爺さま」
兆恵さんが、弘くんに声をかけました。
「弘くん、皇帝は幼いころ、野に下されたんだ
一旦は宮廷から放逐されて、乳母に育てられた
だから幼い頃、お父様やお母様の膝に抱かれた事がなかった」
「そうなんですか?」
「だからこそ宮城に戻られた皇帝は、それはお母様を大切になされたんだ
病床に就かれたお母様を、皇帝は帯衣も解かずに夜昼看病為された
俺らの間では、有名な話しだよ」
「兆恵さん、それぐらいで勘弁してくれ」
康煕皇帝は幼い頃に流行り病に罹り、一旦は廃嫡されて在野で乳母に育てられました。
康乾盛世、清朝は康煕皇帝から乾隆皇帝の時期に大変に発展しましたが、それは康煕皇帝が庶民の生活を知っていたからだと言われます。
8歳で父親(順治帝)が病逝した時には病を克服し、却って頑健な少年になっていて、宮廷に呼び戻され皇帝に即位しました。
しかしほどなく、10歳のときに今度は母親を亡くします。
康煕皇帝はこれを嘆き食事もとらずに泣き続け、後に「父母膝下,未得一日承歓」と漏らしたと伝えられます。
乾隆皇帝の母親思いも有名ですが、それはやはりお爺さまの康煕皇帝の影響が大きいのでしょう。
勘定をすませて、康煕皇帝は考え込みながら階下に降りました。
階下では、小僧さんが大声で叫んでいました。
「饅頭が、あがったぞーー」
「京城名物、百味香だーー」
「さあ食べてみろーーーー」
ごった返すヒトはといえば、胸肩丸出しの褌いっちょうで突っ立ってるヤツ、
腕まくりして、ズボンの裾まで捲くっているヤツ、
そんな奴らばかりです。
一見しての肉体労働者、それがただ立っている。
飯なんて食べていないし、ましてやお酒なんて飲んでない。
饅頭が蒸し上がるのを待ち構え、群がって買い求めてその場で立ち食い。
食べたら、その足で外に駆け出していく。
蒸篭の饅頭はたちまち無くなってしまいました。
康煕皇帝の脳裏に浮かぶのは『生意興隆』の4文字、まさしく商売繁盛です。
どうして、皆ここの饅頭をそんなに食べたがるんでしょうか?
康煕帝は乾隆帝のお爺さま |
康煕皇帝は、そこに居た青年に訊ねてみました。
「そりゃあ蜜香居の饅頭は大きいからね
旨いし安いときちゃ、そりゃあ
他の饅頭なんて食えないよ
俺ら体張ってる連中はさ
みんなここの、この饅頭が大好きなのさ」
そう言う青年が手にした饅頭を見せてもらって、弘くんと兆恵さんは、
「お爺さま、この饅頭の餡は・・・」
「本当だ、肉も野菜もぎっしりですよ、皇て・・お爺さま
これだけの材料を使って、あんなに安く売るなんて」
思うところのある康煕皇帝、再び階上に上がってマネージャーを探します。
目つきがカミソリのように鋭くて、もみ上げの濃い、体つきのガッシリとした東洋人の男が壁際に立っていました。
康煕皇帝が後ろから近づいていくと、
バシッ
気配を察した男が、裏拳を飛ばした。
後ろも見ずに、正確に狙う、顎。
いきなり飛んできた拳を、眉毛ひとつ動かさず、康煕皇帝は受けた。
睨み合うふたり、康煕皇帝だって眉が濃くって目つきが鋭い。
うーん、これは怖い。
まるで、国際的スナイパーの対決です。
男は壁を背にして洋モクをくわえ、しゅぼっ。
片手でマッチに火をつけて言いました。
「音もたてずにオレの背後に立つんじゃない」
まだ、飲食店が全面禁煙になる前の時代のお話しです。
飲食店が完全禁煙になったら、国際的スナイパーはもう、ジャパンでは仕事をしないかもしれません。
「あれだけの饅頭をあんなに安く売って
ボランティアってわけじゃないんだろう?」
「オレたちの売上げは1日で数十両はあるぜ」
男は寡黙なようでいて、案外と饒舌でした。
続けて男は、
「あの饅頭か?、あれは客寄せだ、商売じゃない
つまりは、ブランド作りよ
ウチの稼ぎは全部、あんたら高貴な方々が持って来るのさ」
今時の漢族、満族の官僚や八旗子弟は、遊びに来ているのさ
ただ御機嫌を伺って御満足頂けたら、銭の多寡は関係ない
少々高くても、奴らは喜んで支払う
奴らは『ネコ食い』をする、2・3口食べたらそれで終わり
余った料理は仕分けして、
饅頭を作っているのだと、男は言いました。
旨くて新鮮、大きくて安くて材料費がタダ。
貧乏な労働者でも僅かの銭でメシが食える。
だからヒトが集まる。
それが京城名物、百味香の正体でした。
考えさせるものがあります。
宮城に戻った康煕皇帝は、筆を取りしたためました。
百味斎 康煕某年御筆
それが蜜香居に送り届けられると、例のマネージャーもさすがに驚きました。
あの男、康煕皇帝だったのか、どおりで自分の裏拳を難なくかわしたわけだ。
蜜香居ではこれを扁額にして、階上に掲げたということです。
(ここでの“斎”には「飯店」の意味合いがある)
それを蜜香居にたむろしていた連中が見たら、どんな反応を示すでしょうか。
さらに康煕皇帝は兆恵さんに、あの不埒な諸侯貴族たちの姓名・住所を残らず調べ上げてもらいました。
そして、正月に直筆の年賀状を皇帝名義で差し出したといいます。
一粥一飯当思来之不易
半縷半絲恒念物之難艱
これは朱用純という儒家の格言の引用ですが見当がつく通り、「食を得るは易くなく、品物の製造には大変な手間がかかる」といった意味です。
それで行状を改めたものも居れば、相変わらずの者も居たということです。
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