2017-12-21

【メモ:皇帝の憂鬱】為君難 ─ 乾隆帝即位秘話

 体躯の7穴から流血して頓死、乾隆帝の父の壮絶な最期 

 【メモ:皇帝の憂鬱】

為君難 ─ 乾隆帝即位秘話

 (点心皇帝)


雍正帝の詔書改竄疑惑

乾隆皇帝は祖父の康煕皇帝を大変に敬っていた、とされています。


江南への行幸は、康煕皇帝が6度、乾隆皇帝も6度。

皇帝の在位期間も、康煕皇帝が61年、乾隆皇帝はそれをギリ越えない60年。

陵墓も、乾隆皇帝は康煕皇帝と同じ、清東陵。

このお話しでは、どちらも母親思いであった、というエピソードも付け加えました。


しかし乾隆皇帝の父親の雍正皇帝は、康煕皇帝を恐れていた。

在位期間は13年で、陵墓も「東陵はもう狭いし石礫ばかりで掘るの大変だし」とかいって、わざわざ清西陵を造営しました。

それは本当は、康煕皇帝のそばに居るのが恐かったからだ、と噂されます。

さらには雍正皇帝は鉄面皮、薄情な性質で家族を顧みず身内の葬式にも出席しなかった、とも言われるのですが、


真相は、違うかもしれません。


康煕帝から乾隆帝にかけての134年間は、康乾盛世という清朝が大変に発展した時期でした。

大航海時代の末期、ちょうど東インド会社が広東に食指をのばし始めた時期で、アメリカの独立は乾隆年間になります。

それぞれの皇帝の在位期間は次の通りでした。


 康煕皇帝1662年~1722年の61年間 

 雍正皇帝1723年~1735年の13年間 

 乾隆皇帝1736年~1795年の60年間 


質実剛健な康煕帝と華やかなイメージの乾隆帝に挟まれて、雍正皇帝は日本ではマイナーですが中華ではここ数年、見直されてきました。

雍正皇帝は、康煕皇帝から乾隆皇帝へのつなぎのワンポイントリリーフを自認していたのだと思います。


康煕皇帝は死ぬまで次の皇位が誰であるかを指定しませんでした。

ところが死後になってから、康煕皇帝の詔書が出て来ます。

そこには次の皇帝は、第四子の雍正皇帝であると示されていた。

1723年、当時45歳の雍正皇帝は帝位に就きました。


これが物議をかもします。


そんな遺詔で次代の皇帝を指名するなんて方法は、これまで満族にはありませんでした。

次の皇帝は長老が会議で決める、康煕帝もそうやって皇帝になりました。

「病を克服して玄燁は却って強健になっている」、そう言って康煕帝を推した長老が居たわけです。


なのにこんなやり方で次の皇帝を決めたのは、康煕皇帝が初めてだったのでした。

世間の耳目では、次の皇帝は第十四子の胤禵という人だと目されていました。

この前後にジュンガルで乱があり、胤禵は皇帝の名代で八旗を率いて出陣していました。

康煕皇帝の胤禵への信任は非常に篤かったのですが、その間に康煕皇帝は崩御し、雍正皇帝が即位してしまった。

これには当の胤禵も納得がいかなかったようです。


そこで、『雍正皇帝の詔書改竄疑惑』が浮上します。


雍正皇帝は、康煕皇帝の詔書の『伝位十四子』の字を(う,ここに)に書き換えて『伝位于四子』にした、と言うのです。

“于”の意味は、英語の“at”に相当します。


康煕遺詔

康煕遺詔拡大

これは近年まで囁かれた疑惑でしたが、ところが、

その康煕皇帝の詔書がなんと、台北の故宮博物館にあったのです。

詔書のクリーニングが終わり展示されるようになったのは、比較的最近のようです。


康煕皇帝は漢語があまり得意ではなかったらしく、その詔書は満語と漢語が半々で書かれていました。

漢語ならともかく、満語なら書き換えるのは困難です。

第一、漢語であっても“于”の字は当時は“於”の字を使っていたはずですから、書き換えるのは不可能なはずです。

康煕皇帝の詔書には、次のように有ったのでした。


 雍親王皇四子胤禛人品貴重

 深肖朕躬必能克承大統

 着継朕登基即皇帝位

 即遵典制持服二十七日釈服

 布告中外咸使聞知


さらに、MatteoRipaというイタリア伝教師の手記や、朝鮮李朝の当時の記録も見つかりました。


曰く、

「康煕帝は臨終の際に、身に着けていた念珠を雍正皇帝に託した。それは康煕帝が死の床の順治帝(康煕帝の父親)から託されたものであった」


雍正皇帝の即位は、完全に康煕皇帝の意思によるものだったのでした。


では何故、康煕皇帝は、宮内の待望もあり信任も篤かったはずの胤禵ではなく、自分を恐れて避けていた胤禛(雍正皇帝)を選んだのか?

その答えは、今のところ示されていません。

ただ、その後の乾隆帝の時代にかけての清朝の隆盛を考えれば大正解であった、という結果が有るだけです。

しかしながら、その理由なら雍正皇帝のその後の行動に自ずと現われているかもしれません。


雍正皇帝は帝位に着任後、数年で『密折制度』を制度化しました。

この密折制度とは、「次代の皇帝を秘詔に記して、死後に開封して初めて次代の皇帝が判明する」という方法です。

つまり、康煕帝がやった事を、そのまま制度化したわけです。

この密折制度はその以前の時代にもありましたが、正式に制度化して強化したのは雍正皇帝が初めてでした。


そうしないと、つまり現皇帝の生存中に次代の皇帝が判明したら、様々な者が暗躍して死人が出るような事件を引き起こす、という建前です。


こうして、自身で制度化した密折制度で雍正皇帝が選んだ次期皇帝こそが、乾隆皇帝、でした。

それは1730年頃だったはずですから乾隆皇帝はまだ20歳前、雍正皇帝は着任早々、次の皇位は乾隆皇帝と決定しました。


ここで、「密折制度を強化して乾隆皇帝を選んだ」、のではなく、

「乾隆皇帝を皇位に据えるために密折制度を強化した」、と解釈をしたら?

なにしろ「次は乾隆皇帝だよ」と早々とバレてしまうと、乾隆皇帝は高確率で謀殺されてしまうリスクを負ってしまいます。


康煕帝の崩御が1722年の11月、翌年早々に雍正皇帝が即位し、元宵節(陰暦1月15日)が過ぎた頃。

雍正皇帝から、造辦処に書簡が届きます。

それは「為君難」の3文字と、雍正皇帝の対聯(トイリェン)でした。

造辦処は皇室御用の物品を製造する職能集団の部署ですが、対聯の扁額と「為君難」の印璽(いんじ=国印)が製作されました。


 為 君 難 

惟以一人治天下 

芑為天下奉一人 


為君難の禦印

  君を為す困難 

「惟(これ=皇帝)は孤独に治むもの、

 一人を奉るにあるまじや」 


『天下』が『一人』を『奉る』のではなく、『一人』が『天下』を『治める』のだと。

(き)は大昔は食用にしていた雑穀ですが、「如何にして恩に報い得ようか」という意味もあります。

為天下奉一人、ここでは「天下が一人を奉るなどして如何に天に報いるのだ」といったところでしょうか。


「為君難(ウェイチュンナン)」は論語ですが、「為君難。為臣不易。如知為君之難也・・・」と続きます。

雍正皇帝は「為君難」の印璽を何度も使い潰し、作り直したといいます。

対聯の扁額は養心殿という、大臣が皇帝の謁見を受ける場所に掲げられました。


臣下の労苦はともかく、仮にも清朝の皇帝なら全能も同然だろうに、いったい何が困難だというのか?

誰もが疑問を感じました。

為君難、周囲の疑問も尻目にそれからの雍正皇帝は法治国家を目指して猛然と法整備を進めていきます。


雍正皇帝も若い頃は、乾隆皇帝のように江南への遊行に出ていたものでした。

また唐玄宗のように道教に嵌って、あやしげな道士の許へ出入りしておかしげな丹薬製造に没頭した、なんて話しもあります。

この近代に秦始皇じゃあるまいし、そんな皇帝は雍正皇帝が最後でした。


それが皇位に就くと一転、現実主義。

宮城からはとんと外に出なくなり、後宮にも寄り付かず、日夜執務に励みます。

昼間は大臣との折衝や、来賓の対応や、政務をこなし、夜になってから上奏文の処理をやりました。

それは後宮に寄り付く暇もなかったでしょう、睡眠時間もろくに取れなかったはずです。


そして即位から13年後、雍正皇帝は血反吐を吐いて急死します。


その前日、雍正皇帝は圓明園で倒れ、翌日午後には危篤。

大臣に緊急招集がかかるも、その夜にそのまま死亡。


当時雍正七窃流血


「頭部の7穴から血を垂れ流し」、かなりな死に様です。

(七窃:両眼両耳鼻孔と口腔)

ただ正史には、死因は明記されておらず、憶測で丹薬の誤飲説があるだけです。


若い頃に道教に嵌っていた前科はあるわけですが、死因が丹薬であったにせよ、雍正皇帝はそれを必要としたのでしょう。

現代なら、エナジードリンクを多用してカフェインを過剰摂取、といった感じでしょうか。


雍正奏折、これは西洋人の扱いについての奏上文

雍正皇帝は上奏文に全て目を通していたようです。

上奏文の文中で“奴才(ヌーツァイ)”などとへりくだっていたら“臣”と朱色で校正したりしていて、しかも、その上奏文には全て朱筆で雍正皇帝自筆のコメントが残されているということです。

そのコメントがまた、ユーモアがあるものですから、近頃は書籍になったりもしています。


その在位期間中に処理した上奏文は4万件強、その総文字数は5000万文字に達したといいます。

休日は全く無し、1年365日×13年、で単純に日割り計算をしても、

上奏文だけでも1日あたり1万文字をこえる文書を読破し、処理していました。

もちろん全部漢字ですから、日本語感覚では3万文字ぐらいでしょうか。

それを雍正皇帝は、夜間作業で、毎日こなしていた計算になります。


驚異的な鉄人皇帝、これでは丹薬云々に関わらず、45歳のオヤジがそんな働き方をしただけで頓死しても当然。

きっと残業時間は300時間を越え過労死ラインを大幅にオーバー。

側近の者が休息を勧めても、逆に「苦労をかけるなあ」、と返したそうです。

中華の歴史上、雍正皇帝はトップクラスの真面目な皇帝だったのです。


そうやって雍正皇帝は、命を賭して乾隆皇帝の治世へと繋げました

為君難、それは雍正皇帝の覚悟の現れだったのです。


おそらく康煕皇帝は、「命懸けで乾隆皇帝の治世へと繋げることが出来るのは、雍正皇帝」

そう考えたのではないでしょうか。


 「第四子の弘歴を皇帝として治世を繋げ、

  且つそれまでに国家の基盤を整備せよ」


雍正皇帝が即位し、密折制度で乾隆皇帝を指定し、死ぬまで働き詰めた理由、それが康煕皇帝の意思だったとしたら。

なにしろ雍正皇帝は、康煕皇帝を死んでも傍に居たくないほど恐れていたのです。


仮にも皇帝ですから、節季のイベントや宮廷行事では、造辦処の絵師が記念写真がわりの絵図を残しています。

そんな絵図のなかの雍正皇帝のそばには、必ず皇后さまが寄り添っているそうです。

雍正皇帝は、決して薄情でも、家族を蔑ろにするつもりもなかったのでしょう。


普通の皇帝なら「あー、また恒例行事かよー、面倒くせー」とか思うところを、

雍正皇帝は家族と過ごせる貴重な時間として、楽しみにしていたかもしれません。



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