2017-05-04

孝女曹娥事件( 端午伝説)

 潮神に喚ばれた少女 

 孝女曹娥事件 

 (端午伝説) 

曹娥江(舜江)

月が満ちる頃、海に潅(そそ)ぐ川は陰陽を描く。

海と川の狭間に涌きたつ波濤。

北岸の黒い潮は、潮神の伍君と伝えられる。

南岸の潮は海龍王、潮神と海龍王は塩官のあたりから一線に並び、銭塘江を遡りはじめた。

(注:銭塘江の北岸が呉の側.塩官は地名で,ここから海嘯は一線潮となる)


「看潮去ー、看潮去ー呀ー」

─涌潮が来たぞー、見に行くぞー


杭州城里の人々が銭塘江の川辺に集まってきた。

川を遡り押し来る波濤。

地盤を轟かせて波濤が護岸を乗り越え、無謀な若者が何人か押し流された。

江南の人々は、この潮神は伍子胥(ごししょ)であると信じて疑わない。


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YouTube「TidalBoreatQiantangRive」


海嘯現象、南米アマゾンのポロロッカの中華版。

毎年、中秋節の頃の満月の大潮に、銭塘江では川が逆流し波がどこまでも川を遡って行きます。


銭塘江(せんとうこう)は、杭州湾に注ぐ河川で江南運河(京杭大運河の長江以南)の終点です。

概ねこの銭塘江から北側が昔の呉の国で、南側が越の国。

杭州市は杭州湾の最奥に位置しますが、時代によって呉になったり、越になったり。

銭塘江を隔てて、さらに南が紹興市です。


越側の、ほとんど銭塘江の河口に注ぎ込む支流があります。

この川はかつては舜江(シュンチャン)といいました。


googlemap



五月晴れの川面を響いてくる、高い歌声。

穏やかに行き交う幾多の帆船(ほぶね)

みな、米や茶を運ぶ荷船です。


曹娥(そうが)は岸辺に立って、父親の曹盱(そうく)の歌声を聴くのが好きでした。

この少女は、まだ十四歳になったばかりです。

きっと美しい少女だったのでしょう。

(ウー)”の文字は、女性の美しさを表します。


近頃は潮神が荒れているようだ、そう父が言っていたのが気に掛かります。

季節が陰から陽に移り変わるこの時節は、特に天候が急変しやすく川が荒れやすいのです。


少女の父親は巫術師でした。

行き交う船が安全に航行できるように、いつも潮神に歌舞を捧げています。

父の乗った舟が風を受け、穏やかな川を遡行していきました。


後を追って川岸を歩く少女、小さくなってゆく父の舟。

少女は川辺に佇んだまま、このまま父が戻るのを待つつもりでしょうか。


川浪が少女の足を洗いました。


おかしい、なぜ波が足に、はっとする少女。

何時の間にか川が増水している。

つむじ風が少女のほほを打ち髪を乱し、川は荒れ始めていた。


行き交う船がみな帆をたたみ、川岸に避航して来る。

半裸の男たちが船から飛び降り、大声をあげながら船を岸辺に舫(もや)い始めた。

曹娥

父の舟は──


川上から舟が吹き流されてきた。

皆が見ている前で、波に揺られ舟が傾ぐ、風に煽られて舟が回頭し、真横になったとたん、

舟は横転して半沈し、帆柱が折れた。


叫びながら岸辺の船に飛び乗る少女。

父の舟にしがみつく人影が見える。

少女の耳に、かん高い歌声が届いた。


束の間ほっとした少女だが、次の瞬間、父の真意を悟った。

父は、他の船を護るために、自身を捧げて潮神を鎮める気だ。

大声で父を呼ぶ少女、蒼い顔で固唾をのみ見守る船乗りたち、見ている前で父は沈んだ。


川に飛び込もうとする少女、船乗りたちが引き押さえる。

自分達にしてもすぐに船を出して救出に向かいたい。

だが、今、船を出せば確実に2次災害に遭う。 

舟はそのまま、流れていった。



その日から、舜江の川辺を彷徨う少女の姿が見られました。

父の名を呼びながら、河口から事故現場まで、何度も行き来するようになりました。

そんな姿を見て、人々も胸を痛めます。


中華では、死んだ人の魂はそのまま家族とともに過ごし、祖霊は一族を庇護するという考え方があります。

なので、家屋敷の中に墓を作るような風習を持つ地方もあります。

また、遠方で客死した場合は、何としても遺骸を故郷に持ち帰ろうとする。

チャン・イーモウ監督の映画「我的父親・母親(邦題:初恋のきた道)」では死んだ父を伝統通りに連れ帰ろうとする母親に息子が辟易しますが、この映画の背景にはそのような考え方が有りました。

その逆に、仇敵を倒したら、遺骸を川に流して魂が故郷へ帰れなくしたり、或いは墓を暴いて遺骸を破壊したり、

死ねば仏の日本目線では悪逆非道なそんな行為も、そんな考えの裏がえしです。

なので、少女にとってはある意味、父の生死は関係ないのです。


それは父には生きて戻って欲しい、しかし死んでいたとしても、必ず連れ帰らねばなりません。


少女は想います。

父にしても、自分たちの許に帰りたくないはずがない。

ならば、こうして自分が探し続ければ、必ず父は出て来てくれる。


故に、父を探し続ける少女。

なのになぜ、幾ら呼んでも、父は応えてくれない。

その日は十数日も前の、あの時と同じく風が吹き荒れていました。


少女は、全く諦めようとしません。

しかし、こんな事を続けても、もう無理だとは知らねばならない。

ならば、別の方法も有るのだろうか、少女は何を思ったのか。

今日も川辺に立ち、


少女は衣(きぬ)を脱ぎ捨てた。

膝を揃えて川辺に跪き、舜江の流れに呼びかけた。


「父よ、天に在らば験を顕せ。己が娘の孝心を成就せよ

 この娘の衣は、在るべき処へと流れ、父の許に沈むべし」


少女は衣を川に投げた。

衣は川を漂いながら流れ、少女は後を追う。

突如、川が荒れ始め渦を巻きだし、衣が捉えられ数度廻るとほどなく衣は沈んでいった。

曹娥墓

少女は一片の迷いもなく、川に飛び込んだ。



少女があがったのは、五日後であったと伝えられています。

その手には、しっかりと父の遺骸をかき抱いていました。


全く諦めようとしない少女に、さしもの潮神も心が動いたかもしれません。

潮神の前身の伍子胥も、最後の最期まで諦めようとはしませんでした。


曹娥が舜江に身を投じたのが恰も、五月の五日(AD143年[後漢])だったという事です。

浙江省紹興市の上虞、この辺りでは今も、端午は曹娥を祈念する日となりました。


曹娥の話しは朝廷にも報告され、曹娥碑が建てられ、後に曹娥廟も建立されて、舜江は曹娥江と名を改めました。




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[メモ]


端午の節句はもっぱら屈原さんが川に沈んだ記念日ですが、どうも屈原さんが端午の象徴になったのは宋代になってからのようです。

もちろん、チマキもドラゴンボートも、東南アジア一帯に広がる風習で、中華独自のものという訳でもありません。


その起源が古すぎて、好く分からないのです。

乾季から雨季に移り変わる時節の、何れ水に関わる稲作文化と密接に関連した節季ではあるのでしょう。


端午節自体は季節が陰から陽に移る、その転換期の行事で道教とも関わります。

その、陰から陽に移行する瞬間が、(うま)の刻

現代の、午後2時くらいでしょうか。


 「 五(ウー) = 午(ウー) 」 


五月五日の午(ひる)は、「午月午日の午(うま)の刻」です。


端午”のは“”の意で、「午の月で最初の午の日」が端午となります。

この節季に中華では、何故か孝忠を尽くした者の事件が関連付けられました。

その事件は地方により色々ありますが、大きくは3つ。


1つは、伍子胥(ごししょ)の事件で、江南一帯。

1つは、屈原さんの沈江事件で、これは全国区+日本と台湾。

1つは、孝女曹娥の事件で、昔の越国の周辺。


何故か全ての事件で、主人公は川に沈んでしまいます。



[おまけ]


曹娥碑について、幾つか興味深い伝説がありました。


曹娥碑は泥棒されたりして何度か建て替えられたようですが、

「初代の石碑を盗んだのは朝廷で、皇帝が隠し持っている」

という噂が立った、という話しの真偽はともかく。


曹娥碑の碑文を書いたのは、邯鄲淳という当時13歳の少年書家でした。

県令は魏朗という書家に依頼したのですが、ところが書けなかった。

そこでその弟子の邯鄲淳にやらせたところ、少年は神懸ったように一気に書き上げた。


出来上がった碑を、蔡(さいよう)という学者さんが見に来ました。

ただ、蔡は当時逃亡生活中で、来たのが夜だったものですから碑文が見えません。

そこで蔡邕は指で碑をなぞって、碑文を読んだ。

そして頻りに感心し、碑の裏面に文章を書き足しました。


黄絹幼婦,外孫齑臼


これは謎格という1種の謎かけですが、この句がどういう意味なのか誰にも分かりません。

それを解いたのが、あの三国志の曹操でした。

曹操は蔡とは昵懇で、曹娥碑の話しを聞きつけていたようです。

どうも聞きつけて、その場で解いたというのが真相のようですが、伝説では楊修と一緒に見に来たことになっている。


黄絹幼婦,外孫齑臼


曹娥碑を前にして、曹操が楊修に問いかけます。


「お前、この意味が分かるか?」


「分かりますよ、これはですね・・・」


「あ、待て、俺も考える」


そのまま二人は、30里も歩いた。


「あー、分かった、分かった」


曹操が興奮して喋りだします。


黄絹:「絹は糸で、黄はその色、糸と色で、""の字だ」


幼婦:「幼婦は少女、女が少ないで、""の字だ」


楊修は微笑みながら、「はい、そうですね」


外孫:「外孫は女(娘の意)の子供、女と子とで、""の字だ」


齑:「齑は生姜やニンニクを砕いたもので・・」


:「臼はそれを受けるものだから・・・」


齑臼:「辛いを受けるで、“受辛”は""の繁体字だから・・・」


黄絹幼婦,外孫齑臼=「絶妙好辞


「はい、やはり蔡は邯鄲淳の碑文をベタ褒めしていたのですよ」


「うーん、やっぱりなー、・・・って、おい、じゃあ何か、

 俺の頭はお前とじゃ、30里分の距離が有るってのか」



さらに、200年ほど後、

王義之の真筆?

王義之が赴任してきた折に、曹娥碑のその碑文を臨書(写し書き)したというのです。

その曹娥碑の王義之小楷が今も残っていて、数少ない王義之の真筆(かもしれない)という事になっています。

さらには、曹娥碑は盗まれたりして再建されている訳ですが、

現存する碑は、「王義之の最期の真筆を彫ったものだ」・・・・・。


李白が曹娥碑を見て詩を詠んだ、という話しも有るようですが。


まあ、そこいらは中華のことですから・・・。



王義之の真筆?

素人には分かりませんが、どうなんですか。




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