2017-05-28

西湖明珠(杭州の伝説)

 杭州に舞い降りた玉龍と金凰 

 西湖明珠 

 (杭州の伝説) 



天河の岸辺。

玉龍と金鳳の2匹は大喜びです。


「できた、とうとうできた、僕らの玉だ」


「スゴイわ、この玉すごく光るね」


「玉の光で樹が繁りはじめたよ」


「花もいっぱい咲き始めたわ」


玉龍は天河の東岸にある石窟に棲んでいます。

金鳳は天河の西岸にある森林に棲んでいます。


ある日、2匹は天河の仙島で玉の原石を見つけました。

それ以来2匹はいっしょに玉を磨き続けたのです。

毎日毎日、何年も何年もかかって、石は遂に真球になりました。


金鳳は舞いながら仙山の露を滴らせ、玉龍は天河の清水を噴きかけます。


玉が光り輝きはじめました。


樹木にその光芒が差すと、青々と葉が繁り枯れるということがありません。

仙島の玉龍と金鳳

野原にその光芒が差すと、一斉に花開き百花繚乱。


山紫水明、五穀豊穣。


2匹はいつまでもウットリと見惚れつづけています。

もう2匹は自分たちの棲みかに帰ろうとはしませんでした。

玉を護るように仙島に棲みついたのです。

金鳳と玉龍は、いつか互いを愛しむようになったのでした。



「あの煌きは何かしら?」


玉の閃光を西王母に見られてしまいました。

金鳳と玉龍ごときがあんな玉を持ってるなんて、西王母には許せません。


夜半、西王母は天兵を遣ってこっそり玉を奪ってしまいました。

そして玉は誰にも見られないように仕舞いこんでしまいました。

この時、西王母は玉の光が漏れないように、9重の箱に鍵も全部つけて鎖で縛ったといいます。


翌朝、玉がないことに気付いた金鳳と玉龍。

探しても探しても見つかりません。

天河の底も、仙山の隅々までも探しました。

でも見つかりません。


2匹は探しつづけます。

おそらくは、この2匹は互いのために玉を見つけ出そうとしたのでしょう。



そして今日は三月の三日、西王母の誕生日です。

西王母は大変に古い神さまで、お誕生日には盛大なパーティーが開催されます。

このパーティーを蟠桃会(ばんとうかい)といいます。


「生日快楽」

(注:お誕生日おめでとー。で、何万歳になったの?)


数多(あまた)の神仙どもが仙宮へお祝いにやってきます。

蟠桃(ばんとう)を振る舞い美酒に酔うにつれ、例の玉を見せびらかしたくなった西王母。

御自ら箱を取り出し、鍵を解き始めました。


蟠桃会-左下がきっと七仙女(西王母の娘)

透明な光。

パーティー会場のなかのすべてのモノが輝き始めました。

会場の真ん中に引き出された玉。

金のお盆に端座しています。


玉の光で全てが輝き、その輝きを受けてますます光る玉。

輝きの連鎖反応、神仙どもは声もありません。

有頂天の西王母。

 

「天上を探したらある、地上を尋ねたら見つかる、というような代物ではありませんよ

 もう、天上天下唯我独尊

 さあ見てください、わたしの玉」


「それは、ボクたちのだ」


「そうよ、ワタシたちの玉よ」


金鳳と玉龍。

仙宮から漏れ出る玉の輝きを金鳳がみつけ、2匹がやってきたのです。

西王母は、玉龍と金鳳を張り倒しざま、


「デタラメこいてんじゃないよ

 私は玉皇大帝の女房だよ

 天上の宝物はぜんぶ私のなんだよ!」


「ちがうよ、ボクたちが毎日毎日何年も磨き上げて作った玉だ

 天上のモノじゃないっ」


なんだか分が悪い西王母、金盆に手をのばしながら天兵に、


「玉龍と金鳳を放り出せ」


話しにならない、玉龍と金鳳も玉を奪い返そうと金盆にとびかかる。

ゆれる金盆。


仙宮に満ちていた光が消え、

玉が地上に転がり落ちていきます。


すかさず後を追う玉龍と金鳳。

ゆっくりと、輝きながら落ちていく玉。


後を追う龍と鳳。

ゆっくりと、なのに追いつかない。


落ちるにつれ、地上の山々が青く輝き始めました。

青い輝きを受け、玉は碧(みどり)に光り始めます。

龍と鳳も蒼く染まってきました。


碧の光が一際大きく広がり、

碧の真珠、杭州西湖になりました。


そして金鳳と玉龍は山となって今も西湖の傍らに静かに佇み、杭州の古老は謡います。

  

 西湖明珠從天降

 龍飛鳳舞到銭塘





 【メモ】宋代の杭州 


金鳳は鳳凰山に、玉龍は玉皇山となりました。

鳳凰は雌雄がセットになったもので、鳳が雄で凰が雌です。

玉龍は女性の格を代表しますから、玉龍が女の子で、金鳳は男の子。

って、じゃあ浮気じゃん。


金鳳は金鳳で、鳳凰とは別の神獣という設定でしょうか。

金鳳が単品で人間界に現われて、人の手助けをする伝説は幾つか有ります。


中華人にとっての杭州西湖とは、日本人にとっての富士山のような特別なイメージであるように見受けられます。

日本には各地にミニ富士山が有るように、中華にも各地にミニ西湖が有ったり、風貌が似ていたら○○西湖と名付けたり。

上野の不忍池にも形状が似ている事から「杭州西湖を模して造られた」という噂があります。



杭州では宋代の頃に、中華の文明が一極集中しました。

北宋の時代は、洛陽より100kmほど海寄りの河南省の開封が首都でした。

この頃はまだ皇帝が庶民的、本当に皇帝が宮城から出てきて自ら市井の人々と交流する事も度々有ったようです。

女真族の金国に攻められて、北宋朝は河北(黄河以北の一帯)を占領されてしまいます。


北方の騎馬民族に押されて、南宋の時代には、杭州が臨安府(臨時政府)となり、今度は杭州が賑わう事になります。


 題臨安邸


 山外青山楼外楼

 西湖歌舞幾時休

 暖風薫得游人酔

 直把杭州作汴州


この漢詩は杭州の旅桟(商人宿)の壁に書かれたもので、作者は公式には林升ですが、実は判然としません。

往時の墨客は平気で酒楼の壁に書写をして、酔客から酒代をせびるなんてことをしていました。

それが風俗誌に掲載されて現在に伝わり、作者は複数説ある、という事になっています。

この詩の場合は、西湖遊覧誌餘(西湖遊覧誌の続編)という雑誌でした。


「杭州がさながら(べんしゅう:現代の開封)のように賑わった」という意味で(日本では)この漢詩が引き合いに出されます。

しかし本来は、「この国難の大変な時に政府は遊んでばかりいる」と時の政権を皮肉ったものでした。

「杭州も州の時のように遷都する事になるぞ、次は何処に行くんだ」、という思いが背景にあります。

実際に宋末の皇帝は海上にまで追いやられ、船で逃げ回った挙句海の藻屑となり、南宋は潰えることとなります。


皇帝や政府とともに長江以北の人々や文物が杭州に雪崩れ込み、元から有った南方の文化と北方文化が融合してごった煮となる。

国が滅亡に向かう大変な時を前に、杭州は経済的にも文化的にも大変に発展していく事になりました。

そういう意味では、中華の正当な文化を伝える地方は、やはり江南地方(鎮江・蘇州・上海・杭州のあたり)という事になります。


現代も伝わる点心の多く、特に饅頭(マントウ)系のものは、宋代に発祥したものが多いようです。



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