2017-08-22

【メモ】李青雲伝説(2)伝説の創生(長寿伝説)

 当人も知らないうちに、享年256歳 

 【メモ】李青雲伝説(2)伝説の創生 

 (長寿伝説) 


重慶市

真実とは、事実から推定されるものです。

「真実はひとつ」だなんて神への冒涜も甚だしい。

真実を知りたければ、神の声を直に聞くか、然もなくば事実から推定するしかありません。


推定の数だけ生成する『真実』、相反する真実の矛盾は伝説が補完します。

伝説は新たな『真実』を創出し、而して『伝説』は自ら進化する。


享年256歳の開県老人、李青雲。

256年に及ぶ数奇な物語が有るわけではなく、情報媒体で世に知れてから死去するまでの、ほんの5年間のお話しです。

その間、李青雲が何をしたわけでもなく、その人物像はただの好々爺。

ただ世間が騒いだだけでした。


実際に長寿ではあったのでしょうが、享年256歳であったはずもない。

本文中に示したように、当人は「ワシは256歳だ」などとは一言も言っていません。

まあ「んー、200歳ぐらい」とは言っていましたが、もしかしてこれは只のユーモアだったんじゃないでしょうか。

100歳overのご老人の思考回路はどんなものかちょっと想像つきませんが、関西人ならその程度のボケは日常です。


資料を漁っていて見掛けた、とある掲示板でのやりとり(2011年2月)


 『質問』

 ニーハオ

 ネットでよく見るあの李青雲の写真って贋物だろ?


 『回答』

 本物だ

 ウチのじーちゃんが当時の万県で写真館をやっていた

 原版がある

 古写真に「李青雲250歳記念」と書いてある

 ウチは重慶の南岸だ、もし重慶に来たらな

 ウチに連絡しろ、見せてやる

 それで納得できるだろ

 

 『補足』

 そーなのか!、百度(Baidu)にも記事あるよな

 あの写真か、どーやって連絡を取るのだ

 

 『回答』

 ネットで連絡とれるだろ

 きっと、いー友達になれるぜ

 連絡方法なんかそれでいーだろ


李青雲伝説、いまだに“進化”し続けているようです。



李青雲伝説が成立するポイントは3つだけ。


(1)李青雲が実際に長命であった

(2)成都大学の胡教授が発見した変な資料

(3)思い切り近代の出来事であった


これがもし、どれか1つでも欠けたら、残念ながら伝説は成立しません。


(1)が無い「へー、アダムも930歳だったよね」

(2)が無い「へー、でも256歳は無いだろ」

(3)が無い「金太郎享年55歳」、「へー」


そんなことになっちゃう。


神代の昔と違って、現代人は256年も生きません。

どこかにミスが有るのです。

いったいどこにミスが有ったのか?


例えば─


成都大学のセンセーの発見資料「1877年時点で200歳」

これを、


「中華も大昔は2倍年暦を使用していた痕跡がある

 きっとこの200歳は、ホントは100歳だ」


と考えたら、勘定は概ね合ってしまいます。

もちろんこんな近代まで「2倍年暦(春夏で1年,秋冬で1年と勘定する暦)を使用している訳はないのですが、ただ、

この限りなく妖しい“資料”が無ければ、「李青雲伝説」は成立しない。

だからこそ、その「妖しい資料」の存在が囁かれる、という事です。


「1930年に、成都大学の胡教授が李青雲長寿の資料を発見した」ということですが、ググってみたら、成都大学の創立は1978年でした。


残念ながら枸杞子や気巧術では、長命は期待できないようです。



李青雲の実年齢はやはり、150~160歳あたりだったでしょう。

その程度の非公認記録なら、浜の真砂(まさご)ほどもあります。

自己申告のつまらぬ冗談などには惑わされずに、

学者さんがもっとしっかり調べていれば、長寿記録をレコード出来たかもしれません。

でも、当時の中国はそれどころじゃなかったか。


年齢詐称とするべきではないでしょう。

本人にすればただの冗談、それによってどんな利益を受けたわけでもない。

あるとするなら、薬草売買の箔つけ程度。


 李青雲(45歳・男性)が開県に流れてきた。

 問屋さんに薬草を卸しに行って聞かれる。


 「おっさん、何処から来たんだね」


 「何処ということもない、10才かそこら

 ガキの頃から山を渡っていたからなあ」


 「へー、ガキの頃から

 何年ぐらいそんなことしてんの?」


 「うーん、今年で・・(とりあえず倍の年齢にしとけ)

 90歳ぐらいになるからなぁ」


 「ひぇ~、それじゃぁ大ベテランじゃねぇか!」


きっと聞く方も、真剣に聞いちゃいない。

そんなくだらないこと言ってたら、

思わずレコード樹立するほど長生きしてしまった。

一番の長寿者として、万安橋の開通式に招かれた。

当人も知らない長寿な資料が出てきた。

で、変に有名になってしまった。



李青雲は、『陳遠昌』の他にも『李慶遠』という名が有りました。

そんな流れ者の年齢をどうやって押さえたんでしょうか。

公的記録で年齢を押さえられる種類の人物ではありません


薬草売買が生業だったなら、

李青雲を見知っていた道士か薬種問屋さんの記録でも調べるべきでした。


さらに、李青雲が清朝政府の長寿祝いを受けた。

そんなお目出度い事実が有ったら、開県の県誌に記録されないはずがありません。


無いようです。

その県誌のネット版は閲覧できましたから、一部、勝手にコピペしておきます。

開県の県誌では、“至辞世時確有170歳無疑” ─ 「李青雲は170歳程度であったろう」とされています。



【開県誌第23編の付録】


《开县志》第二十三篇附录


第五章 逸事轶闻

第六节 长寿老人李青云


民国时期盛传开县陈家场有一位250多岁的老人李青云,1927年和1931年李应万县驻军首长杨森、王陵基之邀去万县谈长生之道,《万州日报》数次报道,省内《国民公报》等报亦作奇闻转载,时人知者甚众。

李青云又名陈荫昌,籍贯不详,传说是上海或云南人,自称生于清康熙十七年(1678)或十九年,18岁时随人采药,后曾经陕、甘、新疆及波斯、印度、越南等地。岭南河北,长江两岸,名山胜地均曾游历。嘉庆十几年(1806-1814)始移居开县。生平娶妻24个(一说15个)。李青云面色微黄,很有光泽,身材高大健壮,两耳长大,胡须不多,牙齿已缺几颗,(自称已三生三落),声音洪亮,步履稳健。生活异于常人,不饮酒、不吸烟、不喝茶、不吐痰、不昼眠。吃饭定时定量,不拘荤素,不食厚味;闲时闭目端坐,两手置于膝上,昂首挺胸,几个小时一动不动;睡时侧卧,口闭以鼻呼吸,早睡早起,还可终晚正坐达旦;蓄长指甲,左手常套六七寸长的小竹管保护指甲;平时寡言少语。从不谈及无关的话。

此次修志向曾在李青云身边生活过的80岁老人黎广松调查。李青云来开县陈家场时约在清嘉庆二十五年(1820),来时面容象50岁左右老人,但自称150多岁。李来后请了一个14岁的少年向此阳(生于1806年)为其挑药担串乡,后又与向之孀姊结婚,仅供侍奉。向此阳卒于清光绪二十五年(1899),享年93岁,当时李尚健在。民国时期李两次应邀去万县讲长生之道,仅谈一“静”字,凡事不心回思,遇事简单处理,不存戒心,则自长生。杨森为李备置全新衣帽,摄像放大陈于像馆橱窗,好事者亦争购相传。《开县志》编辑室此次亦征得高县胡英华先生献出李青云照片一幅,上书“开县二百五十岁老人李青云肖像国民十六年春三月摄于万州”。李青云卒于1933年,葬于开县长沙镇狮寨村。为李料理丧事的黎广松是向此阳的外孙,当年20多岁,所见李之情况亦如上述。

李青云究竟高寿多少?因李出生籍贯不确切,无从考证。但从李言谈中露出清嘉庆年间白莲教起义事,李与王三槐友善,对王失败认为不免,然颇为之婉惜。开县老一代人中也曾传说李为太平天国石达开旧部。据资料分析,清嘉庆二年(1797)白莲教义军进入开县,年底樊人杰、齐王氏等齐集临江市会师,号众百万。义军王三槐等部在开县境内与清军鏖战七年,至嘉庆八年(1803)全部败灭。李青云恰在此后来到开县,又言与王三槐友善,很有可能是白莲教遗部,因避清政府搜捕而谎称百岁老人。李高寿250多岁虽不可确信,但李在开县生活了113年是确切的,即以来开县时50余岁计算,至辞世时确有170多岁无疑。




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